L.グロータースの肖像

我々のよく知っているグロータース神父(W.A.Grootaers)の父はLudvic Grootaersと言ってベルギーの言語地理学の創始者だった。この小文はOrbis4-1(1955)に掲載されたものの沢木による翻訳である。フランス語からなのでちょっと自信がないところはあるが、大きな誤訳はないはずである。

1885年にトンヘレンで生まれたルドヴィク・グロータースがゲルマン語文献学を学ぶためにルーヴァン大学に来たとき、この分野はできてからまだ9年しか経っていなかった。彼を教えた教授のなかから名前を挙げれば、C.ルクテル(オランダ語)、W.バング・カウプ(英語)、L.シャルペ(ドイツ語)そしてなかでも優秀な東洋学者のコリネ博士となる。彼は若きゲルマン語学徒たちに比較文法を教え、やがてルーヴァンに実験音声学のつつましい実験室を作ることになる。コリネは現代方言に興味を持ち、生を受けた町アロストの方言についての深い研究を1896年に公刊した。これは有能な音声学者・方言学者の証であったが、若きグロータースの学問的な方向付けにも決定的な役割を果たした。1907年にグロータースはトンヘレンの方言をテーマにした博士論文でゲルマン語文献学の博士号を授与された。この著作はコリネが確立した方法に従って書かれ、338ページでルーベン紀要の8,9号の2号を占めている。非常に若い学者が書いたものでありながらこの著作は今の時代まで現代オランダ語方言に関して最良の情報源であり続けている。
コリネは彼に実験音声学の嗜好も伝えた。1912年グロータースはトンヘレンの方言における母音の音色に関する詳細な研究を公刊した(1)。アロストの方言の母音の音色についての類似の研究をすでに著していた師の後をこのなかでも追っていることになる。
 1907年中等教育の教師になったグロータースはオランダ語と英語を王立高校で教えた。(ニヴェル(1906-07)、ナーミュール(1908-1909)ルーヴァン(1909-1935))
1914年、グラウルスとの協働で書いたハッセルト方言の著作が王立フラマン語フラマン文学アカデミーから表彰された。
ルーヴァン大学における彼のキャリアは1920年に始まった。このとき生理学研究所のナヨン教授の助手になり、音声学実験室に配属された。すると直ちに若き助手はゲルマン語文献学の博士を目指す学生の必修になった実験音声学演習の責を担うことになった。1922年から彼は音声学実験室の主任となり、1924年講義を行うことができるようになり、1935年哲学文学部の一般教授となった。ここでは一般音声学、実験音声学、オランダ語標準音、オランダ語方言学、現代方言学方法論、オランダ語文献学演習、ドイツ文学訳読を教えた。
1907年から1920年の間、上記の状況のためルーヴァン大学から遠ざけられていた。この期間、彼は生き生きした関心で周囲の国での方言学の進歩と達成をフォローしていたが、一方でベルギーのフラマン地域でこの新しい学問が全く成功していないことを歯がゆく思っていた。ルーヴァン大学の地位を確実なものにしたとき(1919)、彼はベルギー北部の言語の科学的な研究に取りかかることを決心した。第一次大戦後初のフラマン語文献学会議(ガンド1920)で彼は発表を行い、フラマン諸方言のための組織の計画を描いてみせた。2年後ブルージュの会議でまた別の発表を行った。”中央組織はいまだに作られていない。” 彼は多くの同志に出会ったが、協力者はあまりにも少なかった。中等教育の教諭の組合に掲載し彼らにあてたヴェンカーの調査に使われた40文を方言に翻訳する誘いは乏しい成果しか上げなかった。初期の不成功にも拘わらずグロータースはめげなかった。彼はルーヴァンにZuidnederlandse Dialectcentrale(南オランダ方言センター)
を創設し、ルーヴァン大学ゲルマン学科の卒業生やそれ以外の同志に調査票を送ることを始めた。そして1923年には150人の通信員のリストを発表することができた。同時に数人のゲルマン文献学の学生が彼の専門領域に興味を持つように仕向けた。博士論文として彼らは方言学の論文を提出した。
グロータースは研究の出発点で以下の3つの目標を目指すことにした。
1.ベルギーのフラマン語地域の言語地図
2.ベルギーのすべての主要方言の辞書いなむしろ地域ごとの一連の辞書
3.一連の歴史的研究

言語地図はできるだけ完全なものとしたい。各地方で1ないし数地点でルーヴァン大学で彼自身が養成した専門家が徹底的に方言を研究する。方言の徹底的な研究が終わればそれぞれの専門家は自分の方言のすべての問題点を完全に認識するだろうし、この知識を知的武装として全体としてまとまった20から30地点の方言についての詳細な調査を行うであろう。それぞれの仕事は大量の地図を包含するだろう。そしてその地図で等音線が明らかになるだろう。このようにしてフラマン語地域が少しずつ研究され、最終的には総合的な研究が構成される。ベルギーフラマン語地域の言語図巻である。
同じ時にそれを追うようにしてベルギーフラマン語地域の諸方言の一般辞書の準備が始まる。資料は記入式のアンケートによって収集される。1年に2,3度ボリュームの異なる調査票がかつてのゲルマン語専攻の学生、学校の教諭、民俗学者から募った通信員に送られる。この手の作業で協力が拒否されることはない。結果として中学校の教師によって助力が提供され、時々長期休暇の宿題として自分の生徒に記入した調査票を提出させるということになる。こうした生徒が今度は自分でこのような調査に興味を持つということが頻繁に起き、あとで熱心な協力者になったりする。通信員は、数回にわたって送られてくるコメント付きのお手本に従って、簡略化した音声表記を可能な限り使用する必要がある。
歴史的な研究に関してはオランダ語の文法の歴史と研究すべき方言の語形についての確固たる知識をもった学者が着手しなければ成果をあげることができない。
L.グロータース一人が実現しようとしているこの巨大な企画が山あり谷ありとなることは明白である。このことについては歴史を語るのではなく、30年以上にわたる勤勉な営為のあとでの成果について簡潔に概観しよう。
50ほどの各地方言の詳細な研究、博士論文や資格取得のための論文がグロータースの弟子たちの手で書かれた。弟子たちはベルギーフラマン地域の約三分の二を徹底的に探索したことになる。労作のすべては一方言の音声面の詳細な研究と形態論の概観を含んでいる。構文は最近の何年かのいくつかの論文で扱われたに過ぎない。シリーズになっている5本の論文はベルギーフラマン地域の全域での強変化動詞の概観を与えている。別の論文はいろいろな方言における口蓋化現象とウムラウトを扱っている。これらの著作はどれも現在に至るまで公刊されていないが、弟子たちはルーヴァン大学音声学研究所の相談を受けることができる(「研究所からしかるべき援助を受けられる」の意味か)。
方言辞典公刊のための資料収集は決して終わることがないが、いつでもこれで終わりとしてもいい状態である。しかし、グロータースによって集められた大量の資料は今にして既に十分完全と言っていい辞典を編集するのに十分である。平均して50の質問文を含む48本の調査票が現在までに発出された。最初のころは200から300程度の回答数だったが、その数は徐々に増え、28番の調査票では800に達した。そのあとはほぼ安定している。回収された調査票から得られたデータの一部とくにリンブルフのものはカードに転写してあるが、財政的な手立ての不足により転写作業は中断を余儀なくされた。多くの質問文が複雑で多くの回答がまるまる1文であったりする(一つの文のなかの複数の語が回答として採用される、の意)ことを考慮すると、収集済みの資料をすべて転写しようと欲するなら単純計算で200から300万枚のカードに転写する必要があることがわかる。辞書プロジェクトは終わっていないのだが、再開できていない。
言語地理学にとってはグロータースが集めた資料は汲めども尽きせぬ鉱脈となっている。本人と弟子たちは現在までにこの領域で33本の作品を出版した。「赤スグリ」「黒スグリ」「リンゴ」「ひこばえ」「ニワトコ」「ヒルガオ」「ヒナゲシ」「タンポポ」「シャクヤク」「リラ」「ケシ」「violier」「テントウムシ」「蝶」「蟻」「クロツグミ、ナイチンゲール」「ケナガイタチ」「聖歌隊の子供」「臼歯」「酢」「熊手」「薪束」「石材を運ぶための二輪車」「鞭の緒」「バケツ」「小銭」「畑の境界」「分銅に切れ込みを入れる?」を意味する語形のほかに10数個のラテン語からの借用語が扱われている。
グロータースの指示によって書かれた資格取得のための二本の覚え書きはフラマン語方言における一定の数の動物名と花の名をそれぞれ扱っている。彼の弟子の何人かはいろいろな地方で使われている農業用語について書いた。ロマンス語からの借用はおよそ10本の論文のテーマになった。グロータースはゲルマン語とロマンス語の間の借用およびこの二つの言語群で共通の現象に対して常に生き生きした関心を持っている。
グロータースが膨大な資料を彼のルーヴァンの研究所に積み上げたのに、財政的な手立ての不足、またその結果として人員の不足のためにそのなかのほんの取るに足らない一部しか現在に至るまで出版されていないのは残念なことである。記録は存在していて利用者はアクセスでき、ベルギーフラマン地方の俚言に興味のあるすべての人にとって大きな恩恵を与えるだろう。付け加えるなら常に数を増やしつつある方言学者や民俗学者が南部ネーデルランド方言センターに照会していて、かなりの数の論文はセンターの資料なしでは書かれることはなかったろう。例としてB. Martinが1924から1934にかけてTeuthonistaに発表した10数枚の地図を挙げたい。ドイツ語地域の外のオランダ語地域全域をカバーしているものだった。同様に特定の地名の地理的分布についてのJ. Lindemansの研究やリンブルフの言語学的民俗学的問題についてのW. Roukensの研究も挙げることにしよう。
グロータースが提案した3つめの課題、すなわち方言の歴史的研究は実現することが最も難しいものだった。彼の指導のもと13,4世紀のトンヘレン、ハッセルト、ルーヴァン、マリーヌのオランダ語に関する最古の非文学的記録にもとづく5編の研究が編集された。
グロータースの活動は「王立地名学方言学コミッション」のもとでも行われた。ここで1926年の設立以来彼は主要な役割を果たしていた。1927年から1952年の25年間、彼はこのコミッションの雑誌のために「オランダ語方言学の領域における前年のすべての出版物の批判的概観」を書いていた。

1926年に彼はオランダの有能な方言学者で彼の僚友ライデンのG.G.Kloekeとともに「北部および南部オランダ語方言叢書」を作ったが、それは今や9巻を蔵している。うち7巻は古いシリーズで2巻は新しいシリーズである。この叢書の第1巻で彼は歴史的研究を行い、1925年までのベルギーオランダ語研究の完全な文献目録を作っている。クルーケが出版した「南北オランダ語の言語地図集」の初版で共同作業を行っている。彼はこの地図集の地図のベルギー地域の部分にドキュメントをつけた。この地図集はヨーロッパにおけるすべてのオランダ語の領域を含んでいる。
L.グロータースの活躍は方言学だけに止まらなかった。言語学のすべての面が彼をひきつけた。Winkler Prinsの大百科事典の5版6版で音声学と音韻論に関するほとんどの記事を書いた。1948年に第6版が出たルクテルの著作『オランダ語の言語学的側面と歴史入門』(Inleiding tot de Taalkunde en tot de Geschiedenis van het Nederlands)を彼は改訂した。この作品はその領域で模範となるものであり大学(ベルギー、オランダ、南アフリカ)においてオランダ語表現の古典的著作となっている。最新の版でルクテルの手は認めがたいが実際の著者(グロータース)はかつての師への敬意から表紙にその名を残したのである。
グロータースがベルギーならではの必要性に応えて作られた仏蘭・蘭仏辞典(初版は1930年)の改訂をする時間を見つけたのは驚くべきことではないか。この辞書の大きな利点の一つは発音記号によってフランス語とオランダ語のすべての語の発音を表示していることである。これはグロータースのような熟達の音声学者にしてはじめて出すことができた新機軸である。1954年に12版が出たということはこの辞書が世の真の需要に応えた証である。
1920年からグロータースはルーベン紀要の編集長である。この雑誌はオランダ方言の研究出版を視野にコリネとL.グルマンによって創刊された。あとになって門戸を広げてこの雑誌は現代文献学一般に捧げるものとなった。「彼の」雑誌にグロータースはざっと200本の文献学(言語学)の論文を書いた。
 これらすべての仕事だけでは彼のあふれんばかりの活動を挙げ尽くすことにならない。というのは王立フランドル言語文学委員会や国際言語学委員会、ベルギー法典翻訳委員会、ベルギー行政用語統一委員会、オランダ語言語学ベルギーオランダ大学連合センター、アフリカ言語学ベルギー委員会など数多くの委員会や学会で活発に活動していたからである。
 この碩学の教授の65回目の誕生日が彼の弟子たち、教え子そして数多くの友人たちにとって共感と賞賛を表明するお祝いを企画準備する機会になったことはなんら驚くべきことではない。彼の謙虚さをもってしてもこの機会に方言学だけに捧げられた論文集が出版されることを止めることはできなかった。この書のなかで15人ほどの友人がこの学問の様々な側面について研究し、関連諸科学との関係について述べた。私はここでこの論文集に書く光栄を得た彼の伝記の最後のフレーズを繰り返したい。
「グロータースは大学の教授として世に期待されるようなことを行った。われわれは彼を国際的に高く評価される学者として、我々の方言研究研究所の創設者として、我らの母校であるルーヴァン大学の栄光としてお祝いしたい」

J.L.Pauwels

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