「共通の友人」という言い方がある。その第三者をふくめて三人が旧知の間柄であることが普通だが、ときどき「えー、あいつ知ってるの?昔一緒に遊んだんだよ」というようにお互いにその第三者と知り合いだったことを知らないことも起きる。この場合はその場にいる二人は第三者を間にはさんでつながりができていたのに気づいていなかったことになる。
では、間に二人をはさんでつながりができていることが分かったりすることはあるだろうか。
私事になるが、私とカミさんがまさにそれだった。結婚式に来てくれた私の大学の先輩とカミさんの大学の友達が披露宴の会場でよく知った顔を見てびっくりしたということがあった。カミさんの姉の大学のときの同級生が私の高校の同級生だったことが判明したこともある。
では間に3人が入ったつながりはどうか。実はこれも経験がある。昔同僚だった社会学の先生の言によれば間に4人はさめば世界中の人とつながるというセオリーがあるらしい。私とカミさんの間に3人はさんだつながりは実は無数にあるのだけれどたどりきれないので、一つしか見つかっていないということかもしれない。
アンリ・フレの「日本語二千文」の成立過程を調べていて目にとまった名前があった。前田護郎がジュネーヴでフレを手伝ったとある。前田先生とは大学一年のときに話をしたことがある。一度だけだったがどんな雰囲気の方だったか思い出せる(ような気がする)。フレの師はバイイでその師はかのソシュールである。つまり、間に三人はさんだだけで私はソシュールと「つながって」いたのだ。
これはお遊びのようなもので、私と前田先生のような淡いつながりであればおそらく万を超える人がソシュールと三人はさんだだけで「つながっている」と主張できることになる。
以上の「つながり」は、学校やアカデミックな世界などで場面を共有している者同士で生じているのだが、意表をついた奇遇としか言いようのないつながりを経験したことがある。
Yさんという女性との何気ないやりとりから、Yさんはお友達が私の恩師のお孫さんであることを推理してしまった。結果としてその推理は正しかったのだが、普通だったら起こりえないような「つながり」がそこには二つもあった。まず、私とYさんのつながりだが、大学でお昼に同じテーブルを囲む7,8人のグループのメンバーである。お昼を気のあった人たちと食べるというだけのグループで、所属している学部もばらばらなら、教員ありアルバイターありで、男性も女性もいる。いつも全員が集まるわけでもなく、一人だけのこともあれば8人が勢揃いすることもある。いつグループができたのかも分からなくなっているが10年以上のつきあいであることは確かである。Yさんはアルバイターでいつも私のいた学部とは別のところで仕事をしていたから、普通だったら全く接点がなかったはずである。
もうひとつの恩師のお孫さんとYさんのつながりだが、これも普通あり得ない組み合わせである。Yさんは長野県在住、お孫さんは東京在住で接点がないはずだが、ライブ鑑賞という共通の趣味が二人を結びつけた。結果としてYさんを仲立ちとして恩師と私の間に新たな「つながり」が生じた。奇遇としか言いようがないが、実はこのようなつながりはほかにも世の中には無数に存在していて単に気づかれていないために目に見えなくなっているのだと思われる。
地球を半周して戻ってくるような「つながり」は今から三十年ぐらい前に判明した。勤めていた大学にベルギー人の外国人教師がいたのだが、あるとき思いついて「グロータース神父のことを知っているか」と聞いたら「知っている。高校のときの同級生が神父の甥だった」。これはちょっとした驚きで間に二人しかないのにグロータース神父とつながってしまった。しかもベルギーに行って帰ってくるようなつながりである。
ちょっと感激したが、神父にその話をしたら「どの甥だろう。大勢いるから分からないよ。」というお答えだった。グロータース家は多産系で甥も姪も大勢いるのだった。
人のつながりって不思議ですね。先生の恩師のお孫さんとの接点も、元々は私の双子の姉が彼女と友達になり(ライブハウスで声を掛けられた)、私も紹介されて友人になりました。
そののち、N先生のバーベキュー会で澤木先生と私達双子がたまたま同席したのも、つながりのきっかけになりました。Sちゃんのおじいちゃまって、辞典とか作ってたって聞いたよねーって話になり、澤木先生のご専門と近いから、もしかしたらご存知かなと思った訳です。
まぁとにかく、これも学食で和気藹々に話せる仲間だからこそ、つながったのでしょうね。
あのときは本当にびっくりしました。意外なつながり方があるものだと思ったものです。でもYさんを接点にしてそこから新たなつながりが生まれました。「袖振り合うも他生の縁」といいますが、縁を大事にしなければいけませんね。