JPOPの日本語 1

 「JPOPの日本語」のようなタイトルで、日本の流行歌謡の発音を研究する試みはいろいろな人によって行われている。実は私もその一人だったが、31年分のデータ(1500曲弱の音声と歌詞のテキスト)を収集しいろいろ試みたあげく、論文の形で世に問うことはあきらめざるを得なかった。ここでは志半ばで終わってしまったが、私が企図していたものが何だったかをざっくりと述べ、私のアイディアを若い人たちに委ねることにしたい。
 1982年12月号の『言語生活』のコラム「気まぐれ考言学」に出竹研二名で以下の文章が書かれていた。

(一部略)
 しかし、歌の発音を歌唱技術と関連づける
ことを徹底して行いつつ、流行歌の批判をし
たことは今までなかったし、これからもない
だろう。ところが、実際には発音は歌手の個
性の一部であることにおいて歌手の声や容姿
と同等だと言える。流行歌の歌手には自分の
個性をはっきりさせるために自分の発音をあ
る方向にねじ曲げてしまう人もいるようだ。
「い・け・な・いルージュマジック」の忌野
清四郎(いまわのきよしろう)がその例で
「君がいなけりゃ夜は暗い/春の陽ざしの中
もとてもクライ」の「クライ」は英語のcry
の発音である。二十年近く前に「cry cry cry
花咲く街角で」というフレーズの歌があった
が、多分あれのもじりだろう。
日本語の中に英語を埋め込んでしまう、あ
るいは日英語渾然一体としてしまう傾向がも
っと進んでいるのがサザンオールスターズの
桑田佳祐(「匂艶 The Night Club」)だろ
う。歌詞は「二人でDance the night away」
といった具合で、最新LPの歌詞力ードを見
ると横文字と日本語の文字とどちらが多いか
わからないほどである。
 歌を聞いてみるとこれがまた日英語渾然一
体化している。彼の日本語の特徴については
(英語の特徴は自信がないので述べない)気
がついたものだけで以下の通り。
1、ラリルレロの子音はrではなくてl
2、タテトの子音が歯の裏ではなくてもっ
と奥(alveolar)
3、タテト、カキクケコの子音が非常には
っきりした有気音。
4、ウの母音を唇を丸めて発音している。
5、ニの子音が口蓋化していない(極端に
書くとヌィのようになる)。
以上の特徴は英語的なもので、まさに発音
の点でも、日英語渾然一体化しているといえ
る。しかしなぜ英語の部分を日本語的に発音
しなかったのだろうか。
 桑田佳祐の曲は他の歌手も歌っている。研
ナオコの「夏をあきらめて」は現在ヒット中
だが、これを彼女は桑田流ではなく、自分の
歌い方で歌っている。それは今あげた発音上
の特徴が彼女の歌にないところにもあらわれ
ている。その反対に中村雅俊の「男も濡れる
街角」は発音も含めてまるっきり桑田流にな
っている。この人は器用すぎる。
 松任谷由美(「守ってあげたい」など)も個
性的な発音が彼女の歌い方と一致している。
彼女の特徴は、子音を無気音で発音すること
が多いことと、アの母音が奥寄りであること
だ。これはどちらもユニークな特徴である。こ
れは鼻濁音がないという若い世代に共通な特
徴が加わって彼女の歌い方をより硬質なもの
にしている。ついでに言えば、彼女が作詞作曲
した曲はメロディーが歌詞のアクセントや文
節の切れ目と一致しないところに特徴があっ
て、一度聞いただけでは歌詞が聞きとれない。
 桃井かおり(「ねじれたハートで」)は桑田
佳祐と同じくタテトの子音が奥寄りだがこれ
は彼女がイギリスで何年かを過ごしたことと
無関係ではないだろう。彼女の発音上の個性
は歌っているときよりは、ふつうに話してい
るときにはっきりするらしく、その意味で彼
女の本業は女優だと言える。
 山下久美子(「赤道小町ドキッ」)はくりか
えしの部分のDoki Doki!が「ドゥキッドゥキ
ッ」になるところがおもしろいし、曲の表現
でもアクセントになっているのだが、レコー
ドではそれほどはっきりしていない。アの母
音が前寄りなのが気になるがこれは後で述べ
るように十代・二十代によく見られることだ。
 一方、歌唱法と関係のないところで歌手の
発音を楽しむことも可能である。現代の十
代・二十代の発音の傾向は若い歌手たちの歌
にも反映されている。たとえば、三原順子
(「セクシーナイト」)で「やさしい」のシは
シともスともつかない発音で、これは東京の
若い女性についてときどき指摘される傾向と
一致している。またシュガー(「ウェディング
ベル」)の「ワタシ」の母音が全体に前寄りで
あることも若い世代の発音を反映している。
「歌は世につれ……」というが、歌の日本語
が世につれてきたことを考えると、年末の歌
謡曲シーズンもまた感慨が深い。これから歌
の日本語、そして日本語の発音はどうなって
行くのだろうか。

 何を隠そう、「出竹研二」はここだけで使っていた私のペンネームである。今あらためて読んでみると歳月の隔たりを感じる。今の人にLPなんて言ってもわからないだろうし、言及された歌手のうち二人はこの世にいない。
 それはともかく40年経っても自分の流行歌謡への向き合い方が変わっていないと感じる。発音が歌唱技術の一部だとする点、歌の発音が若い人の発音を反映することがあるとする点は今も変わらない。それだけでなく、歌を聞いたときに歌そのものよりもその歌を歌っている歌手の発音が気になってしまうのはこのエッセイを書くずっと前からそうだった。
 私が中学に入ったとき(1962年)にアメリカのポップスが急にはやるようになり、テレビには日本語歌詞でアメリカの曲のカバーを歌う飯田久彦、ザピーナッツ、スリーファンキーズらの姿が映っていた。(中尾ミエ、園まり、伊東ゆかりの三人娘、弘田三枝子が出てきたのもこのころだ。坂本九はすでに大スターだった。)鈴木やすしだったかと思うのだが、「エ」の母音が狭いのに気づいて、どうしてだろうと思った記憶がある。もちろん、音声学を知らないので「狭い」という言葉を当てはめたわけではなく、普通の「エ」と違うぐらいに感じたのだ。別に自慢ではなく、子供は新しいものを見聞きしたときに鋭敏にそれを感じ取るが、大人になったときにそういう心の動きがあったことを忘れてしまうのだと思う。私の場合はその違和感が強烈だったので、ずっと記憶に残っているのだろう。
 歌の発音に対する考え方はぶれていないが、今の私が38年前にタイムスリップして同じことを書くかと言ったらそれは違う。発音が歌唱技術の一部だとしても、誰それがこんな発音をしていると指摘するだけだったら、人それぞれでみんな違うという話でしかない。38年前の私に対しては「その話のオチは何だ」とツッコミを入れたいところである。
1982年という時期に桑田佳祐の発音に対して多少とも言語学的な立場から指摘を行ったものはなかったのでその点についてささやかな自負を持っていたが、同じころ海の向こうでは流行歌謡の発音についてもっとスケールの大きなとらえ方をした論文が発表されていたのだった。

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