1983年にトラッドギルはOn Dialectを発表した。この中の第8章は”Acts of conflicting identity The sociolinguistics of British pop-song pronunciation”と題されている。ご覧の通り、イギリスの大衆音楽を発音の面から取り上げたもの(初出は1980年)である。
最初の問題意識としては、ビートルズがデビューしたとき彼らの本来の方言であるリバプール訛りではなく、アメリカ南部の黒人英語の訛りで歌っていたのはなぜかというものがある。ところが、6年の活動期間(ビートルズはメジャーデビューして6年で解散してしまったと若い人に言ったらみんな信じられないというはず。)の後半になると自分たちのもともとの発音になっていく。一体それはどうしてだろう。
トラッドギルが偉いのはビートルズで終わらないで、イギリスのほかのバンドがどうだったかを徹底的に調べたことだ。ローリングストーンズはビートルズと同じころに出てきて、その後今に至るまで息長く活動している。ストーンズのレコードを聴きこんで調べるだけでなく、ビートルズ初期のころに活躍した短命なバンド(キンクスなど)やビートルズ以降に出てきたストラングラーズなどのバンドも調べた。その結果分かったのは、ビートルズ初期の時代はほかのバンドもアメリカ南部の黒人英語(だと彼らが信じていたもの)を真似していたが、時代が下るとイギリスの発音(と言っても方言差はある)そのままになっていくということだった。
キンクスと言っても分かる人はあんまりいないはずだ。私の中学生のころはラジオの電話リクエスト番組で「ハローポップス」というのがあり、そこでアメリカやイギリスではやっている曲を聴くのが楽しみだった。「ハローポップス」にはキンクスの曲もかかった。キンクスは日本ではあまりはやらなかったが、絶望を感じさせるような暗い曲を歌っていた記憶がある。その名前をトラッドギルの論文で見たのはちょっとした衝撃だった。「ピーター、おぬしもオタクだったか」
最初は黒人英語だったのに、だんだん地が出てきてお国の訛りになるのはどうして?という疑問に対しては、トラッドギルは説明を与えている。ビートルズは(ビートルズだけではないが)最初、ロックは自分たちがもともと持っていたものではないと思っていた。自信がなかったので黒人英語に似せて歌っていた。ところが、イギリスのロックが世界的に売れて、ブリティッシュロックとして主張できるようになった。おれたちが本場なんだよと。自分たちのアイデンティティに自信が持てるようになったのであえて黒人英語に似せる必要がなくなったのだ。
とてもよくできた説明だが、科学的に正しいことを証明するのは難しい。でも、ほかのどの説明の仕方よりももっともらしいことは確かである。最初、ロックが自分たちの音楽だと思っていなかったことは確かだと思われる。ビートルズはチャックベリーの「ロールオーバーベートーベン」をカバーしているが、それもアメリカの黒人へのリスペクトゆえだろう。
ちょっと驚いたのは、日本人のロック歌手がよく似たことを言っているのだ。文藝春秋5月号の松本隆インタビュー「僕が出会った天才作曲家たち」で松本は「内田裕也もロックには英語しかあわないと考えていた」と言っている。初期のビートルズと全くパラレルではないか。
トラッドギルが冴えているのは、ビートルズひとりの現象としてではなく、イギリスのロック全体の現象として捉えて大量の音源を聴いたうえでそのことを実証している点だ。
このトラッドギルの論文は日本では陣内正敬さんの「Jポップスの歌唱に見る音声変異」(『外来語の社会言語学』2007に所収、初出は1986年)ぐらいにしか影響を与えていない。もっと知られるべきものだと思う。