陣内さんの功績はJPOPの日本語のようなものでも研究の対象になると示したことだった。トラッドギルの枠組みを使って桑田佳祐の発音の変遷を研究したことについては気がついた人がいるかどうかは知らないがおそらくほとんどいないと思われる。On Dialectは参考文献として名が挙げられているのだが。
私は1で取り上げた文章で流行歌謡の音声の分析をしたあと問題意識は持ち続けていたが、流行歌謡そのものから少しずつ遠ざかっていた。特に1990年に松本に転居したあとはラジオを決まった曜日の決まった時間に聴くこともなくなって、どんな歌がヒットしているかなども全く分からなくなっていた。
そんなあるとき、NHKの朝ドラ(朝のテレビ小説)「どんと晴れ」(2007年)のテーマ曲(「ダイジョウブ」)を聞いたときに強烈な違和感を感じた。「なくさないで」の「く」が無声化していたり、「僕のだいすきな」の「だい」の二つの拍がどちらも十分な長さが与えられていない。全体にメロディーと詞の関係が私が慣れ親しんだものとは違うように感じた。同じころにJUDY AND MARYの「散歩道」(1998)を知り、日常の日本語からさらに離れた発音に衝撃を受けた。「あの雲に乗れるくらい頭やわらかくしよう」というフレーズで「乗れる」の「の」の母音が中舌化している。「くらい」の三つの音節を一つの音符で歌っている。「やわらかく」の「く」が完全に無声化していて最後の「かく」を一つの音符に割り当てているので[kak]のようになっている。
「く」の無声化について説明が必要かもしれない。まず、無声化とは音節の母音が口の形だけはそのままに声帯が振動しない(声がない)ことを指す。例えば「二つ(ふたつ)」という言葉の「ふ」の音は普段の話し言葉では母音が無声化している。ところが歌の場合は音節を無声化させることは避けられる。ちあきなおみは「四つのお願い」(1970)で「二つわがまま言わせて」の「二つ」の「ふ」を無声化させないで歌っている。これは考えてみれば当然のことで、歌の音は長さも高さ(音程)もある。ところが、無声化すると声帯の振動がないので、高さが作れない。
したがって、繰り返しになるが無声化は避けられるのが普通だった。ところが、工藤静香の「FU-JI-TSU」(1988)では「二人別れ告げても」で「ふたり」の「ふ」は無声化している。「ふ」が無声化して単に[f]だけであれば、高さはないけれど長さは残っている。[f]の摩擦音は持続音だからである。だから、「ふ」の無声化は場合によっては許される。ところか、「く」が無声化すると子音[k]のあとは無音になる。つまり高さも長さもないことになる。これは歌としてはまずいはずである。それなのに「ダイジョウブ」でも「散歩道」でも「く」が無声化したので驚いたのだった。
話を戻すと、「ダイジョウブ」と「散歩道」どちらも私が1990年までに聞いていた流行歌謡にはない歌い方だった。これは、と思って当時流行していたと思われる曲を聞いてみると昔聞きなれていた発音の仕方と違うものが多い。しかし、個別にこの歌手はこういう歌い方をしているといってもそれは歌手の個人的な癖を言っているだけである。それではつまらない。
「昔の歌い方と今の歌い方は違う」ことを証明するためには「今の歌い方」だけでなく、「昔の歌い方」がどうだったかを知らなくてはならない。どうすればいいか。