グロータースさんが「私の母の大伯父はナポレオン戦争に従軍したんです。歴史は遠い昔のことだと思っているかもしれないけれどそうではないんですね。」とおっしゃっていたことがある。
グロータースさんの御父君は1885年生まれだから、お母様もそれくらいと考えると大伯父さんとお母様との年齢差は90歳ぐらいだったのだろうか。ワーテルローの戦いが1815年だから、そのときに20歳だったとしても1795年生まれということになる。ありえないことではないが、もし、その年齢差だったら大伯父さんとお母様がナポレオン戦争の話をすることは無理だったかもしれない。グロータース神父様、あのときは感心して聞いていましたが、やっぱり歴史はつながっていないんじゃないでしょうか。
こんなことを考えるのは、松本市内で行われる御柱(おんばしら)のことを調べたときのあることがきっかけだ。
来年は諏訪大社の御柱だが、松本地方では諏訪の翌年に御柱が行われる。実は、長野県では各地で御柱が行われるのだ。ところが、こんなに県内でポピュラーな御柱が県外ではまず見られない。県外で御柱の報告があるのは長野県と群馬県の県境にある南牧(なんもく)村だけである。
松本市では6社で御柱を行うのだが、文献の記録は江戸時代から出てくる。ところが、明治以降から戦前までの時期の記録がなかなか見つからない。もちろん、私が文献調査の専門家でないためもあるかも知れない。本当はどこかに良質の記録があるのに見つけられない可能性は十分にある。
いろいろ探し回ってやっと見つけたのが昭和7年の信濃毎日新聞の記事だった。そこには千鹿頭(ちかとう)神社の御柱の山出し(御柱を山から神社のある山のふもとに引いてくる行事。御柱立てはその翌年に行われた)が中山村の神田、埴原(はにはら)、和泉の3集落によって行われたとある。実際は、中山村だけでなく、松本市側の林集落も行っているのだが、記者はそこを見落としている。それはそれとして現在はこの神社の御柱には埴原和泉集落は加わっていない。
このようになったいきさつは推測するしかないが、昭和18年に中山村から神田集落だけが松本市に編入したことが関係しているのではないかと思われる。御柱は6年に1度行われるので、昭和13年の御柱が行われた次の回である昭和19年は戦争中でありお祭りどころではなかっただろう。次の回の昭和25年から神田集落だけが関わるようになったのではないか。千鹿頭神社は神田集落と林集落の地籍にあり、神田は埴原と和泉とは比較にならないくらい神社との関係が深い。
埴原と和泉は昭和29年に松本市に編入されたが、昭和31年の御柱では両集落が最後に御柱に関わってから18年経っており、今さら御柱を行う機運にはならなかったのだろう。
昭和13年は今から90年以上前のことになる。現在神田地区で御柱の中心的活動をしている40代の男性に埴原和泉集落が御柱に関わっていたことを知っているか尋ねたところ、「全く知らなかった。今そのことを知って驚いている。」とのことだった。分かってみればとても重要なことなのにすっかり忘れられている。
90年前のことを知っている人がいたとして、過去のどこかの時点で後代の人に語り継がないかぎり、伝承として残ることはない。
グロータースさんのことも40代の人あたりから直接には知らない状態になっている。おりに触れて彼のことを取り上げるのも私が個人的な思い出を書くことで彼がある時代を生きた生身の人間だったことを知ってもらいたいからである。どんな人間だったか知る価値が間違いなくある人だった。グロータースさんの魅力的な人となりを知らない若い人が気の毒に思えるぐらいである。
グロータースさん自身がもう歴史になりつつあるのだとしたら、私はその歴史を情報豊かなものとして残したい。