諏訪の御柱

8月21日の「ブラタモリ」は諏訪が舞台だった。
例によって盛りだくさんの内容だったが、諏訪と言えば御柱(おんばしら)の話は避けて通れない。番組では木落としの坂などちゃんと取り上げていた。説明役の諏訪文化研究者の話では「御柱は神社の行事ではなく、氏子が勝手にやっていること」なのだと言う。
そこで心配なことがある。来年の御柱はやらないのだろうか。諏訪地方では御柱は寅年と申年に行う。来年は寅年だから例年通りなら御柱の年なのだが、今はコロナの収束が見えない。たぶん、来年の5月になっても流行は続いているだろう。御柱は普通のお祭り以上に密な状態が生じる。それは大きなサッカーの試合などに匹敵する。しかもそれがメインの行事である御柱立てまで何日も続くのだ。分科会の尾身会長だったら、開催を中止すべきだと言うだろう。
問題は諏訪地方の人たちにとって御柱が人生最大の喜びになっていることである。1998年に長野市で冬季オリンピックが開催されたが、そのときも諏訪の人たちは県内でのオリンピック開催を喜ぶどころか、同じ年に行われることになっていた御柱に支障が出ないかどうかを心配したという。
諏訪の人たちの御柱愛には何か神秘的なものを感じてしまう。まず、神社という神社にかならず4本の御柱を立てる。それが2メートル四方の社地しかないものでも社地の四隅には必ず御柱がある。もちろん、社地の大きさに見合ったささやかなものであるけれども、御柱であることに変わりはない。自宅の敷地内に屋敷神を祀っている人も当然のように御柱を立てる。ここまではいい。
驚くのは神社でもなんでもない、幼稚園でも小学校でも消防署でも御柱が立ってしまうことだ。会社や工場でも立てることはきっとあるだろう。このあたりは自分で確認していないので一度ざっと見て調べてみたいのだが、諏訪の御柱愛の深いことは間違いのないところである。それなのに、今回のコロナのために御柱が中止にでもなったりしたら諏訪の人たちは自暴自棄になってしまうのではないか。御柱が予定通り開催されても、中止になっても心配なことである。

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