ある程度好き勝手なことを書いていいことにしているので、雑文として以下鳥に対する愛を歌い上げることにします。面倒くさいと思った人はスルーしてください。
カイツブリという鳥がいる。古名を鳰(にお)と言う。カルガモより二回りほど小さい水鳥だが、ちょっとした池なら必ずと言っていいほど住み着いている。小さな魚を捕らえるために頻繁に水中に潜る。潜ったところを観察しているとしばらく潜っていてかなり離れたところから姿を現す。危険を感じても潜る。えさを獲るためではなく、移動をするために潜ることもよくあるようだ。水かきで水面を泳ぐより潜った方がずっとスムーズに移動できる。飛ぶところは見たことがない。ただし、とても地味な鳥です。オシドリのような華麗な姿ではありません。
松本市に点在するため池にもカイツブリはいる。どういうわけかお城のお堀で見たことはない。臆病な鳥なので身を隠すところがないお堀は危険を感じるのかもしれない。それと、草などを材料に浮巣を作って営巣するのだが、お堀では材料となる草もない。もしかするとお堀の水が常に流れているので浮巣が流されることをいやがっているのかも。
松本の町外れに千鹿頭(ちかとう)池というため池がある。この池を見下ろす山腹に千鹿頭神社があってそこでは御柱のお祭りをするのだが、池にはカイツブリがいた。ここでカイツブリのフルフルという鳴き声を聞いて幸せな気持ちになったのはもう何年も昔のことだ。私の好きな鳥の鳴き声のなかでベスト5に入るものだ。
ところが4年前に千鹿頭神社を訪れたとき、池は改修中で水はなくなっていた。当然カモ類もカイツブリも見当たらない。カイツブリはどこに行ったのだろうか。あの飛行が苦手らしい鳥がうまく避難場所まで飛んでいけたのか心配になった。
ところが1週間前に池を訪れたところ、以前ほどの水量ではないものの、カルガモの群れが泳いだりするぐらいの水は戻っていた。カイツブリは駐車したところからは見えなかったが、一番奥が見えるところまで歩いたら数羽の群れが見つかった。距離がかなりあったので鳴き声は聞こえなかったが、一度潜ったらなかなか出てこない潜水を確認できた。カイツブリに間違いない。
水のあるところは見通しがいいので、人間から距離を取っている水鳥も目をこらせばゆっくり観察することができる。どの池にどんな種類の水鳥がいるかも大体決まっているので、見たいと思った鳥がいる池に行けばまず間違いなく会うことができる。千鹿頭池にカイツブリが戻ってきたのは喜ばしい。
カイツブリに再会できたのに悲しい思いをしたことがある。
東京の下町に清澄庭園という公園がある。江戸時代に始まる回遊式庭園で宮部みゆきの小説の舞台にもなっている。ここにカイツブリがいて、東京に住んでいた40年前はときどきカイツブリを見に訪れていた。それこそ浮巣で子育てをしているところを見たこともある。
ところが、10年ほど前に清澄庭園を再訪したとき、カイツブリにえびせんをやっている人を見てショックを受けた。カイツブリは臆病な鳥なので人間から離れてひっそりと暮らすのが常なのだが、私が留守にしていたあいだに人間が与える餌を求めて自分から人間に近づくことを学習してしまったようだった。
「カイツブリに餌をやっている」とつぶやいた私に「カイツブリ可愛いじゃないの。ひっひっひ」とその中年女性はヒステリックに笑った。
野生動物を安易に餌付けするのは害が大きい。清澄庭園は都会にあるので、毎日たくさんの人が訪れる。餌をやるのはあの中年女性だけではないだろうから、大量に炭水化物と食塩を体に取り込むことになる。餌の量は全くコントロールされていない。休日とウイークデーでは餌の量は大きく違うだろう。しかも、カイツブリの主食は魚なので炭水化物を十分に消化することはできないはずだ。塩分もそうで、普段の餌にあまり含まれていない多量の塩分を体外に排出するために腎臓を酷使するだろう。鳥の寿命が縮まってしまう。余分なカロリーのために肥満になり、もともと飛ぶことが苦手な鳥はますます飛ぶことが難しくなってしまう。
人間の与える餌に依存するようになった鳥は何かの理由で人間が餌をやれなくなったら飢えてしまう。そこまで考えて責任を持って餌をやっているのだろうか。「可愛いから」というのは人間が餌をやることを正当化しない。
何より悲しいのは人間から離れて気高く生きている動物が家畜化して人間に媚びを売ることだ。こんなカイツブリが見たいんじゃないとそのときに思ったのだった。
徳之島の人と鳥の距離感が懐かしい。人間は鳥に干渉しないし、鳥は人間が近くにいても気にしない。手の届くような距離で鳥を見ることができた。人間が全く鳥に関心がないかというとそんなことはなく、普通の人が鳥を方言名でも和名でも知っていたりする。
都会の人もそんなふうにしてほしい。