鬼打ち木 新木 御竈木

長野県南部で新木(にゅうぎ)と呼ばれる風習がある。1月15日の小正月のときに木の棒に線を12本あるいは13本引いて戸口に立てるのだ。この木の棒のことを新木という。新しいことをニューと言うとはモダンなことだが、もちろん「にい」から「にゅう」に転じたのだろう。
新木のことは馬瀬良雄の『上伊那の方言』(1980)で4葉の言語地図で取り上げている。そして『長野県伊那諏訪地方言語地図』(大西拓一郎 2016 以下『伊那諏訪』)のなかでも同様に地図化している。
あるときに江戸時代の生活について書いた本のなかで「鬼打木」なるものが出てきたのを発見し、長野県の「新木」と同じものではあるまいかと思いついた。江戸時代の風俗について詳述している『守貞謾稿』を調べてみると以下のように記されている。

「又同日(正月15日)江戸武邸門の両柱に割薪に図の如く墨をひき建る也名号てみかま木と云御竈木也閏月ある年は墨を十三引く也江戸も御竈木は武家のみ(みかまぎ図の図解をはさむ)右の削りかけ及び御竈木京坂も官家武家には行之歟民家に不設之なり 南畝(号蜀山人と号す爰に二三十年前と云は明和に当る)曰削掛け二三十年前迄は明松を削り或は柳をも削る今は削る人なし 守貞云今は自ら不削也数十を四銭計りにて売り来る故也古は自製也」

原文は旧字で返り点がついていたが、こちらの都合で書き直している。悪しからず。なお、「削りかけ」というのは同じ日に門戸に垂らす柳の木を削った飾り物である。削りかけも御竈木も著者の書いた図解がある。
これによれば江戸では新木を御竈木と言っていたことが分かる。新木は江戸や京都大阪の武家の風習だったらしい。御竈木の図解はきれいに描けていて、現代の新木(『伊那諏訪』に写真がある)と同じようなものであることがよく分かる。
現代の長野県南部では閏年のときは13本、線を引くという説明をする人がいた。『守貞謾稿』の時代は太陰暦だったので年によって閏月があり、その時には1年で13ヶ月あるのでいつもは12本のところ13本、線を引くということだった。もちろんこのほうが理屈にかなっている。太陰暦から太陽暦に替わったときに閏月のことが忘れられたために閏年にこじつけたのだろう。閏年は2月が29日ある年で、13という数はどこにも出てこない。
ついでに『嬉遊笑覧』を調べてみたら御竈木のことはなかったが、以下の記述を発見した。「江戸町屋に門戸の上に蟹の殻を掛け、又蒜をつるし置くことあり。これ上総の俗の転れるなり。(略)俗云ふ悪鬼を避るまじなひなり。」
おもしろいことにこれも『伊那諏訪』のデータのもとになった調査(2010年から2015年に大西さんと信大の沢木ゼミで行った)のときに出てきた話だった。「賀荷」と書いた紙を張り出すのである。『伊那諏訪』に写真がある。海なし県なので、大きな蟹の甲羅は手に入りにくい。せめてということで、実物ではなく書いた字で代用したのだろう。これも中央の風習が地方に残っている例となる。
つい先日テレビを見ていてびっくりしたのが、沼津市戸田で蟹(タカアシガニ)の甲羅に絵を描いて魔除けとして戸口に懸ける風習があるという(2021年12月9日あさイチ)のだ。
『嬉遊笑覧』では「上総の俗」としていたが、もともと太平洋岸では蟹の甲羅を戸口にかけることが一般に行われていたのだろうか。

風習や習俗と言われるものは伝播することにおいて語形と同じだが、伝播の仕方はどうなのだろうか。知りたい。『日本民俗地図』というものがあるが、項目が限られているので新木や蟹の甲羅は出ていないだろうと思う。

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