とめ はね はらい

「とめ・はね・はらい」と題する朝日新聞の特集(12月19日)を見た。これは「フォーラム」と題して3人の識者の意見と読者の意見を併記しているものだ。識者の1人早稲田大学の笹原さんは「とめはね」のような細かな違いに対して神経質になる必要はないとし、識者のうちもう1人は塾の先生で、そのことは認識しつつ入学試験で採点の対象になるかどうかを学校ごとに示してほしいという意見だった。
いまだにこんなことが問題になるとは子供達がかわいそうだ。それでなくても日本の子供は外国の子供に比べて漢字の学習に余計な時間を使っている。長野県では「白文帳」という漢字の練習専用のノートが売られている。長野県の子供は日本のなかでも特に漢字の勉強をさせられているようだ。
今の時代に漢字の手書きが必要なのはノート取りと学校の試験と入学試験ぐらいのものだ。大学の卒論はワープロで書くのが普通だし、履歴書も手書きが必ず求められているわけではない。漢字を書く練習の必要性は昔に比べたらずっと低い。ただでさえ漢字の学習に割かれる時間が多いのに「とめはねはらい」まで注意しなければならないとなると漢字の勉強の負担が不必要に大きいことになる。
30年以上大学の教師をやってきたが、学生の手書きの字に悩まされるのは定期試験のときだった。漢字ではなく、ひらがなやかたかなの字が読めないのだ。「い」と「り」、「わ」と「ね」が区別できないというのは普通で「て」に見えるが前後の関係で「ひ」「い」としか読めないということもあった。区別が難しいかな文字は答案のなかで何度も出てくるので漢字の誤字よりずっと始末が悪い。このような難読かな文字を解読するのには神経も時間も使う。しかも、そのような答案はごく当たり前に存在した。

初等教育においてかな文字を「ほかの字と区別できるように書く」訓練をしているという話は聞いたことがないが、そういう訓練こそ必要なのではないか。美しいけれど何が書いてあるか分からない字より、下手だけれど他の字との違いがよく分かって迷いなく読める字のほうがずっといい。そのような字を書く学生ばかりだったら試験の採点があんなに苦行になることもなかった。
漢字もそうで、「とめはねはらい」にこだわる時間を正しく読んでもらえるような漢字を書けるようにすることのために使ってほしい。「ほかの字と区別できるように」という視点は大切だと思うが、そんなことは今まで聞いたことがない。ほかの字と区別できてその字だとはっきり分かる字を書くことが根幹だと思う。「とめはねはらい」は枝葉末節だ。
教育の現場でいまだに「とめはねはらい」をうるさく言う先生が多いのは、それさえ教えていれば国語を教えたことになると思い込んでいるからではないか。でも、戦後一貫した国語政策は「手書き文字は印刷文字ではないのだから、細部を気にしすぎることはない」であり、「とめはねはらい」に注意する教育現場はそこから大きく逸脱している。
「字を知っていること」が即「学があること」だった時代は遠く過ぎ去った。自分が考えていることを論理的に表現する能力、書いてあるものを正しく読解し理解する能力が求められている。「とめはねはらい」はそのどれとも関係がない。教育現場の先生方は忙しいのだろうと思うが、国語の時間に何を教えなければならないかをよく考えてほしい。

投稿日:
カテゴリー: 雑文

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です