読めない名前

去年の12月9日の朝日新聞のオピニオン&フォーラムは「読みにくい名前」がテーマだった。識者3人のうち、ウンサー=シュッツ、ジャンカーラさんとは2回ほど話をしたことがある。
2回とも国研で行われた研究会の懇親会のおりだったが、2回目に「シュルツさん」と声をかけたら、「シュッツです。でも面白い間違いですね」と言われた。ドイツ系の名前だと記憶していたので似た音のやはりドイツ系の名前を言ってしまったことを指摘されたのだった。
ジャンカーラというお名前だったので失礼にも「インド系も入っているの?」といつもの軽いノリで言ってしまったら、真顔で「綴りをみれば分かります」と名刺を差し出された。
Giancarlaという文字の連続で、イタリア人のジャンカルロの女性形だと察して「イタリアンですか」「そうです」。ドイツとイタリアの両方にルーツがあるアメリカの人だとわかった。
名前にはその人のルーツを示す機能がある。比嘉という姓を見れば沖縄の人かと思うし、逆に沖縄の人は柴田という名前を見て「珍しい名前ですね」と言うことがあるそうだ。
オピニオン&フォーラム(以下フォーラム)の趣旨は「戸籍にある漢字の名前に『読み仮名』を登録することの検討が、法制審議会で始まった。個性的な読み方の名前は、どこまで認められるのか。読み方の規制と自由を考える。」となっている。
新生児に対する名付けに対して全く規制がなかったために漢字の組み合わせやその読みが爆発的に増えて、一目見たときに読めない名前が世の中に氾濫していることが法制審議会の動きの背景にある。
フォーラムの識者の3人はウンサー=シュッツさんのほかに『キラキラネームの大研究』の著者の伊東ひとみさん、参議院議員の橋本聖子さんだった。
伊東さんは「現在は名づけ本やネットのデータベースも充実し、直感的な漢字のイメージで名づけをする環境も整っています。」としつつも、「漢字の奥深い世界に目を向けず、『感字』化が進んでしまうことは残念に思います」とどちらかと言えば美的なあるいは教養的な観点からの批判を行う。
ウンサー=シュッツさんは日本の名付けの動機と欧米での名付けの変化について語っている。
橋本さんは自分の名前が東京オリンピックの聖火に由来することから、親が思いを持って子供に名前をつけるのだから親は子にその思いを正しく伝え、子供はそれを大事にすべきだと説く。
三者三様の意見だが、私が物足りないと思ったのは法制審議会は「読めない名前が増えた」ことの対策を審議しようとしているのに、「どうして読めないのか」、また「読めない名前のどこが困るのか」について誰も触れなかったことだ。

名前をつけられた人間はその名前で死ぬまで世の中を生きる。言い換えれば、名前は社会のなかで存在するのであり、世の中の持ち物の一部になる。そう考えれば、読みが分からない名前よりそうでない名前のほうがいいに決まっている。
名前をつけるのは一度だけだが、その名前がついた人間は一生の間何度もその名前で呼ばれることになる。本来の読み方と違う呼び方をされるのは当人にとってはいやなことである。逆の立場で、誰かの名前を間違えて呼んだと指摘されるのも何か不当に叱られているような気分になるものである。
実は私の「幹栄」という名前も初見で正しく(親が名づけたときに意図したように)読んでもらったことがない。「もとえい」と読むのだが、初対面の人にいちいち説明しなければならないのが面倒に感じる。70年以上生きてきてやっとどうでもよくなったのだが、それまで何回説明をしたことだろう。勝手に推測で読みをつけられてトラブルに発展したこともある。名前のリストに自分が載っていないと思ったら全然違う読みで登録されていたのだった。
「幹」という字には「もと」という読みだけでなく「みき」という読みがあってこちらのほうがなじみがあるので、「みきえい」と読まれることが多い。実際は「栄」は人名の読みが20あまりもあるらしいので、「みきひで」と読むことも可能だが、そう読んでくださったのは一人しかいない。
今になってみれば自分の名前は嫌いではないが、今までに名前のことで小さな苦労を何度もしなければならなかった。私の親が名前をつけるときにそこまで考えた形跡はない。子供の名前をつけるのは親だが、その子供は一生それを背負って歩くのである。

「読みにくい名前」には二通りある。一つは倫子に対して「ともこ」「みちこ」のように可能な読みが二つあってどちらを選ぶか迷うもの、もう一つは全く読み方が分からないものである。
ここ20年ぐらいで名前に使う漢字の読みが大きく増えた。漢字を組み合わせて名前にすることが多いので可能な読みがかけ算で増えることになる。
漢字の読みが増えたのにはいくつか理由がある。

1.今まで人名の読みとして使われていなかったものを使うようになった。「翔」は「かけ、かける、しょう」だけだったのだが、最近になって「と」とも読むようになった。(例 大翔 ひろと)
2.訓読みの前半あるいは後半を使うようになった。「翔」を「と」と読むのは「とぶ」の前半を使っていることになる。また、スノーボードで夢露(めろ)という名の選手がいたが、「ゆめ」の後ろの音節をとったものだと推察する。「心」を「ここ」と読むのも最近よく見かける。

2.は私のような古い人間には非常に抵抗がある。訓読みの長い歴史のなかで後ろだけとって使うということはなかったはずだ。感覚的に受け入れられないだけでなく、これによって漢字の読みが3倍にも4倍にも増えてしまう。組み合わせで名前の読みが9倍になってもおかしくない。こうなってしまうとふりがなが不可欠になる。
全く読み方が分からないものはいろいろなパターンがあるが、一言で言えば判じ物である。テレビで「璃音」という名前の人を見たが「りず」と読むとのことだった。おそらく、この漢字の組み合わせから「りずむ」を連想し、最後の音節を落とすと「りず」になるのだと思われる。読みを知っていれば命名の由来を推測できるが、何もない状態でこの読みに到達するのは至難の業である。
キラキラネームが出てくる前は名づけの文法のようなものがあったと思われる。男性の2字の名前であれば、一番目に使われる漢字と二番目に使われる漢字とで漢字の役割が決まっていた。もちろん漢字の読みもある程度限定されていた。キラキラネームを年配者が受け入れられない(受け入れる人もいるだろうが)のは名づけの文法が違うからだと考えれば納得できる。
昭和の戦前生まれと戦後生まれでは好んで使われる漢字が違う。また戦後生まれでもバブル前と後で違う。「憲」の字を使う名前は平和憲法や民主主義に対して信頼があった時代のものだろう。名前にはその人がどの時代に生まれたかを示す機能もある。 
キラキラネームについてなにか論じる前にキラキラネーム以前の名前がどうなっているかを記述する必要がある。キラキラネームはそれ以前との対比で語りたいのだが、そのような研究はない。いや、ないと思われる。正面切って言語学的に取り上げた研究を誰かがやってくれないだろうか。

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カテゴリー: 雑文

4件のコメント

    1. Thank you for your encouraging response!

      自分が面白いと思ったこと、自分にはもう研究する時間がないけれど若い人の研究のヒントになりそうなことを書いています。
      できるだけことばに関係のありそうなことを選んで書いていますが、面白そうなことはまだまだたくさんあります!

  1. 私は、名前の読みもさることながら、苗字もよく読み間違えられます。
    本当?の苗字は、「モテギ」ですが、「モギ」、「シゲキ」とよく読み間違えられます。
    また、名前は、「タケシ」ですが、先ず、「ツヨシ」と読み間違えられます。

    実は、「ツヨシ」は、亡き父の名前です。
    父が亡くなった頃、私(タケシ)宛の電話で、先方に「ツヨシさんいらっしゃいますか?」と云われ、「ツヨシは亡くなりました」と返答したところ、私(タケシ)が亡くなっていたことになっていました。

    また、病院の待合室で、「シゲキ ツヨシさん」と呼ばれても、自分のこととは思わなかったため、順番が抜かされたことなどは多々あります。

    氏名というものは、人となりを表すと云いますが、間違えられる方からすると、いっそ、記号と割り切って、どこかの刑罰関係施設のように、番号で呼ばれることも在りかな、などと考えていたことを思い出しました。

    因みに、父の名前と私の名前をつなげると、熟語になるので、父の戒名には、私の名前も入っています。

    1. 「倫子」はトモコともミチコとも読めるからどちらかすぐに分からないという意味のことを書きましたが、漢字で書く名前は読みが一義的に定まらないことが多いです。
      それでもツヨシかタケシかぐらいだったら、二つのうち一つですから、見当がつかないということはありません。それでも困るときは困りますね。
      戸籍に読みを登録することが検討されるようになったのは、DXの時代に読みが分からないといろいろ困ることが起きたからだと思います。たとえば名前のリストを作るときに50音順にするのが一番分かりやすいのですが、正しい読みが分からないと並べようがありません。アルファベットの国だったら英字は26文字ですから発音と関係なく文字順でいいのですが、漢字を誰もが直感的に分かるような順で並べるのは不可能です。

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