今年は諏訪大社の御柱(おんばしら)祭が行われる。いつもテレビで取り上げるのは諏訪大社の御柱なのでそれ以外に御柱があるとは普通は思わない。ところが、実は長野県内の市町村のうち大部分に御柱をとり行う神社があるのだ。県外では群馬県の南牧村だけでこれも不思議なことだが。
松本市も例外ではなく、六社で御柱をとり行う。ただし、諏訪大社の御柱の翌年である。来年は松本市の番なのだ。
信州大学の人文学部に音楽学がご専門の濱崎友絵先生が赴任されてから、かれこれ8年になるだろうか。信州で民族音楽のフィールドワークをするとしたら、とご下問があったので、御柱がいいのではとお答えした。御柱というのは山から切った木(丸太)を大勢で曳いて神社に立てるもので、木を曳くときに木遣りという歌を歌うことを知っていたからだ。
松本地方の御柱が最後に行われたのは2017年で私は退職したあとのことになるが、その年の濱崎先生のゼミに入れていただいて学生さん達と一緒に木遣り師の人から話を聞いたり、松本の神社や諏訪大社に見学に行ったり、諏訪の木遣り保存会の人に木遣りの特訓を受けたりした。
大学教師をしていると若い人に接するのが当たり前で、それが急になくなると寂しいものだが、ゼミのおかげで学生さん達と話ができるようになり、楽しい思いをした。学生さんにとっては迷惑だったかもしれない。特に私の駄洒落にどう対応するか困惑しているようだった。しかし、社会に出る前におやじギャグに慣れておくのも大事なことだ。
ゼミの締めくくりに報告書を出そうということになり、私も少し書かせていただいた。もちろん、音楽的なことは専門外なのでそれはほかの人にまかせて自分の専門に近い文献調査とGISを使った御柱神社の分布図作成を行った。
まず、文献調査だが、松本市内の御柱は学問的な研究はあまりなく、したがって過去の文献に御柱が記述されているかどうかはきちんと調べられていないようだった。また、『長野県史 民俗編』という大部の長野県全体の民俗を見るのに便利な本があるのだが、不思議なことに全県にあるはずの御柱のことは一言もないのだ。「~町誌」「~村史」の類も同様だ。どうしてそうなるか私なりの推理はあるが、ここでは書かない。松本地方については『信府統記』という江戸時代中期に成立した書があるので、もしやと思って調べたら千鹿頭(ちかとう)神社の御柱についての記述があり、16世紀半ばには間違いなく御柱が行われていたことが分かった。
他にも松本地方の御柱の歴史についてはかなりのことを文献から知ることができた。これだけ文献から調べたのはおそらく私が初めてだろう。諏訪大社以外の小さな神社の歴史が文献から分かることを知ってちょっとした感動を味わったことだった。
これ以上のことを知るには、公刊されていない古文書(日記や手紙)をあたるしかないだろう。あるいは長野県の歴史館(文書館と博物館を兼ねた施設)になにかあるのかもしれないが、私にはこれ以上探索する時間も古文書を読む能力もない。後学の人たちが探索を引き継いでくれることを望む。
もうひとつ担当した御柱の分布図は『長野』という雑誌に県内の御柱を行う神社のリストがあったので、ゼミの参加者全員が手分けをして神社の位置情報を入力し、私がGIS(地理情報システム)を使って地図化した。
言語地図もそうだが、地図化することで視覚的に認識ができる。長野県は北信、中信、東信、南信の四つに大きく分けられるのだが、このうち中信は松本地方以外には隣接する筑北村と麻績村に御柱があるぐらいであることがよく分かる。中信とは北は小谷村から南は南木曾村までの長野県西部を指し、木曽地方もそのなかに含まれる。また、東信(上田、佐久を中心とする長野県東部)も分布がまばらである。
言語地理学者の習性として分布図を見るとその分布が成立するに至った歴史を推理したくなる。御柱行事そのものの歴史はこの地図から読み取ることはできない。御柱を行うときに唄う木遣りは松本地方のものが諏訪大社のそれとは違う独特のものだということが分かっている。ゼミで調査できたのは松本地方と諏訪大社、それに塩尻市と辰野町の境界に位置する小野矢彦神社だけだった。松本地方の木遣りはどこから来たのか、また隣接して分布する神社の木遣りがどんなものなのかを知りたい。御柱を地図化したことで松本地方の御柱神社に地理的に近い神社がどこにあるか分かるし、もし木遣りが隣接するところに次々に伝播するものであれば伝播のルートを推定できるかもしれない。地図化したものから得られる情報は多いのだ。
木遣りの歴史研究のその後(私は関与していない)については次稿に譲る。