今の住所に越してしばらくしたころ、近くに奇妙な名前の神社があることに気がついた。通りに面して間口3メートルの石囲い、石作りの鳥居に「耳聞神社」と額が付いている。その奥にけやきの老木が立っていてそのけやきの陰に高さ2メートルほどの小さなコンクリート造りの社殿が見える。松本の町中にこんな小さな神社はほかにない。でも箱庭のような境内(と言っていいのか)に老木があるだけで神さびた雰囲気があるのがおもしろくて、この神社を発見してからずっと気になっていたのだった。
ところが、あるときこの神社が面している道路を片側2メートル半拡幅する計画があることを知って心配になった。奥行きがどれくらいあるのかよく分からないが、2メートル半削ったら鳥居もけやきの巨木も失われて社殿が通りに対してむきだしになってしまう。社殿を後ろに下げようにもそれだけの社地の余裕がないのではないか。
拡幅工事に先だって通り沿いに建っている家や建物を削ったり移転させたりする工事が行われたのは2年前だった。それぞれの事情もあるので一斉に行われたわけではないが、耳聞神社は更地になった。当然のことながらけやきも切られた。私は切り株しか見ていないが、直径が80センチほどあるのに目を見張った。また社地の奥行きが思いのほかあったのも意外だった。
ところで耳聞神社は江戸時代の『信府統記』という書にも名前が出ている。松本藩内の神社が列挙されている章で、埋橋(うずはし)村の県(あがた)明神と並んで耳聞明神の名が挙げられている。県明神(『信府統記』では神社は「明神」あるいは「大明神」として記載される)の社地は「東西十間南北十二間半」、耳聞明神は「東西九間南北十二間半」となっている。どちらも大きな社殿の堂々たる神社だった。
松本市に校舎が現存している旧制松本高校は県神社を移転させた跡地に建てられたと私は故馬瀬教授から聞いている。松本高校のキャンパスは松本市の「県の森公園」となり、校舎と講堂は国の重要文化財に指定されている。県神社の社殿がどこにあったのかは分からないが、かつての神社の森の名残と思われるのが数十本のけやきの木立である。その中の何本かは堂々たる巨木である。樹齢100年は優に超えていると思われる。松本高校が創立されたのは大正8年なので、その前からあったと考えれば、樹齢200年だったとしてもおかしくない。馬瀬教授からはムササビがいたとも聞いている。
『信府統記』にある「県明神」は松本高校がその跡地にキャンパスを置いた県神社にほかならない。現在の県神社は県の森公園の近くにひっそりと静まっている。通りから80メートルほど入ったところに鳥居があって、そこが間口30メートル奥行き40メートルほどの神域のはじまりになっている。社殿の大きさは『信府統記』にあるのとあまり変わらないようだ。神域を縁取るようにしてけやきが立っているが、県の森公園ほどの老木はない。
祭神を記した看板によれば、県神社のほかに四つの神社が祀られていて、そのうちの一つが耳聞神社である。もう少し正確に書くと「県神社大神」の下に「大国主神」とあってこれが祭神ということになる。それに並べて「耳聞神社大神」「八意思兼(やごころおもいかねの)神」と書かれていた。耳聞神社の祭神が八意思兼神だったのは全くの予想外だった。初めて聞く名前の神様ではあるが。
恐らく、松本高校に社地を譲って移転したときに別々だった二つの神社を一つにしたのだろう。残りの三つは摂社として小さな社殿を持っていたのかもしれないが、移転を機に耳聞神社と一緒に合祀され独立した社殿を失ったのだと考えられる。
我が家の近くの耳聞神社は誰かが県神社と合体して社殿を失うことを惜しんで独立の神社としてお祀りすることにしたのではないかと思われる。耳聞神社が個人の持ち物だとも聞いているのはそのような経緯によるものではないか。耳聞神社のけやきは巨木だったが、松本高校創立のときからのものと考えると樹齢100年以上ということになる。
最近になって新たな動きがあった。一度は更地になった耳聞神社の跡地に新しく木造のお社が立とうとしている。白木の骨組みしか見ていないので、完成したときの姿がまったく分からないのだが、今年の冬までには出来上がっていることと思う。耳聞神社という珍しい名前がこのあとも残るのはうれしいことだ。
(その後)
2022年9月3日現在、社殿はほぼ完成したようだが、周辺の整備がまだのようで社地のなかに小型の重機が置きっぱなしになっている。青木を植えたりするのだろうか。今のままだと全く植物がない殺風景な状態だが、小なりとも神社なのだから緑のものがないとおかしい。
社地の形状を改めて観察して分かったことがある。神社の背後を水路が斜めに流れていてこれが隣との境界になっている。社地は二等辺三角形でないほうの三角定規の形になっていて、斜辺が水路、二番目に長い辺が正面になる。道路の拡幅前は正面の辺、つまり間口が10メートルぐらいあったようだ。神社に向かって左側が鋭角の角になるが、そこには青木が植わって茂みになっていたような気がする。
正面の石造りの囲いは茂みの横から始まっていて、ケヤキは右手に立っていた。上に書いたものよりは敷地に余裕があってケヤキの巨木の居場所はかろうじて存在していたようだ。私の記憶では神社に覆いかぶさるようにして生えていたのだが、左手にも何か灌木がなければ緑に埋もれた感じにはならない。こんなに記憶があやふやだったら一度写真に撮っておけばよかったと後悔している。