琉球方言の「主観的打消し」

 琉球方言の動詞の活用のカテゴリーとして「主観的打ち消し」が存在することを述べたい。
 本来ならば論文の形で公表すべきなのかもしれないが、要点は『方言の研究』5の「変わりゆく徳之島方言(琉球方言)と文献研究」のなかでもう述べたのである。しかし、インパクトが弱かったのか拙論を読んだはずの方の頭のなかに残っていないことが分かった。琉球方言や方言文法の研究者にとって常識になるべきことだと信じているので、もう一度このブログの中で繰り返すこととしたい。
いつも言っていることだが、論争は大歓迎だ。何も反応がないのが一番悲しい。

  
 繰り返すが、私の主張の要点は「主観的な打ち消しを表す動詞の形式が琉球地域の一部に存在する。これは文法のカテゴリーとして新たに立てるべきものである。」となる。
 福嶋秩子は「奄美徳之島における否定の意志を表す形式の消長」(『国際地域研究論集』5,2014年)において「(私は)行かない」意を表すときに自分の意志で行かない場合と意志が介在しない場合で表現形式が違うことを指摘した。これは福嶋が徳之島だけで発見したことであり、ほかの奄美地域では未調査である。
 私は福嶋さんから直接そのことを聞いて同じ例が宮古方言でもあることを思い出した。伊良部島の佐和田では「行かない」意でikadja:Nと言うが、これは一人称だけで他の人称ではikaNしか使わない。また、習慣や状況のために「行かない」ときはikaNのみになる。「日曜日には学校に行かない」や「雨が降っているので行かない」がその例である。ikadja:Nを使うのは「行かない」という意志が介在するときだけである。したがって、動詞によってはdja:Nが使えないことがある。dja:Nが使えるのは「意志を持って何かを行う」ことを表す動詞だけである。たとえば「体が痛い。不調。病んでいる」の意の動詞yamにdja:Nは使えない。(yamの正確な意味については自信がない。50年前の記憶である。)
また、dja:Nの過去形も存在しない。ということで、非常に限られた場合にしか使われないが、ikaN(行かない)との区別は厳然と存在する。

 名嘉真三成の『琉球方言の古層』1992には「ぼくは書かない」「主観的打ち消し」としてkakadja:Nなどが複数の集落の語形として挙げられている。名嘉真も「主観的打ち消し」の存在に気がついていた。

 また、崎山理の「琉球・宮古方言比較音韻論」(『国語学』54,1963)では「形態論に及ぶが、(大浦・島尻は)平良の<…たくない>を表す接尾語-dʒa:ŋに-nmaを用いる。ただし、狩俣は平良に同じ。」とある。()内は前後の文脈から私が補った。そうでないと意味が通じない。「~たくない」では意味が少しずれるが、一人称以外では「~たくない」と言うことはないので、これも「主観的打ち消し」に言及したものと考えられる。「~たくない」は意味のとらえ方として間違っている。
 また、同じ意味を表すのに別の形式(nmaは感動詞「いやだ」)が与えられていることは「主観的打ち消し」が文法的なカテゴリーとして確立している証拠でもある。
 それでは-dja:Nは何から来ているのだろうか。宮古方言では動詞の意志形でdiという接辞が使われる。たとえば「行こう」はikadiとなる。これに否定の助動詞aNがついたものがdja:Nとなる。ただし、ネイティブの話者はこの語源を意識しているわけではない。
 徳之島の「主観的打ち消し」は「行かない」の場合’iki’anaNとなる。’anaNは「違う」意の感動詞である。琉球列島の北と南で同じ文法的カテゴリーが存在して成り立ちの違う形式がそれを担っているということになる。
 徳之島に「主観的打ち消し」があることを知るまでは宮古のそれを強く主張するつもりはなかった。全く離れた二つの地域で同じような現象があるのは独立の発生ではなく、過去にもっと広く存在していたからではないか。「主観的打ち消し」という文法カテゴリーを立てることを主張したいし、他の地域でも同様の現象がないか調査することを提案したい。

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