耳聞神社について新情報がある。一つは取り壊される前の耳聞神社の写真を埋草甚一さんがツイッターにアップされていたこと。取り壊されたあとの写真もあるが、その前のもののなかで一番新しいのが2017年12月撮影で、これによればあの大きなケヤキは鳥居と社殿の間に立っている。社殿の正面を外してちょっと左側に寄っているが、社殿が木に覆われたような感じがしたのはそのせいだったのだ。12月なので葉がすっかり落ちていて木と社殿の位置関係がよく分かる。
右手に木があったように記憶していて、その映像が頭に残っているようなつもりでいたのだが、自分の記憶力がいい加減なことを今更ながら痛感した。それだけでなく、コンクリート製の鳥居が二重に立っているのだ。狭い社地のなかに鳥居が二本立っていてそのすぐ後ろにケヤキの大木があり、さらにその後ろに社殿があるという、見たことがないような混雑具合である。何べんか見ているはずなのだが、全然気がつかなかった。いやちゃんと見ていなかったとしか言いようがない。
もう一つは新情報と言っていいのか、むしろ出し惜しみの情報と言うべきかもしれない。『信府統記』の県明神と耳聞明神の記事のすぐあとに
一 祠三ケ所 埋橋村
金山権現 白山権現 駒形明神
都合五社大明神ト云ヒ伝フ、縁起来由知レス
とある。
県明神と耳聞明神が立派な社殿を構えているその近くに祠が三つあり、全部を合わせて「五社大明神」と言い慣わしていたということだ。これは現在の県社で祭神を記した看板に耳聞社大神と縣宮社大神とともに金山社大神、白山社大神、駒形社大神が並んでいるのと一致している。
『信府統記』が成立したのは今から300年前のことで、これで分かるのは江戸時代の中頃に縣社と耳聞社が別々の同規模の神社でおそらくは同じ社地のなかで並んで建っていたこと、摂社のような形で金山社、白山社、駒形社があり、同じ社地にある五社がひとまとめのものとして認識されていたということだ。明治時代に入ってからどうだったのかはまた別に調べなければならない。さらに大正8年に旧制松本高校が開校する直前はどうだったのだろうか。案外江戸時代から大きな変化はなかったのかもしれない。