言語地図を出発点にした言語地理学は戦後グロータースによって日本に導入された。グロータースが柴田武と知り合ったことがその最初のきっかけだったのだが、グロータースが柴田に初めて会ったのがいつかについて当事者二人の証言がまちまちなのである。
日付がいつだったかなどどうでもいいことのようだが、1955年だったとしたら柴田は言語地理学のことを初めて聞いて日本言語地図(LAJ)の予備調査をその年から始めたことになる。1951年だったらグロータースが兵庫県の豊岡から東京の松原教会に転任した1955年までのあいだに柴田と連絡をとりあい、その間に柴田がグロータースから文通でレクチャーを受けたり、あるいは海外の文献を読んだりしてLAJに向けて十分な準備をすることができただろうと思われる。だから、いつ彼らが知り合ったかは学史的にはちょっとした問題になる。
個人的には柴田グロータースの初会合は勝海舟と西郷隆盛の江戸城引き渡しの会見と同じくらい重要な出来事で、それを眼前に見るように想像してみたい。そのためにはそれがいつだったのか分からない状態にはしたくないのだ。
このことについて推理を行い一定の結論を得たのが、私の論考(「グロータースが日本の方言地理学にもたらしたもの」ことばの研究12、2020)である。くわしくはそれを読んでいただきたいのだが、簡単に言ってしまえばグロータースが来日した1950年、そして学術雑誌Orbisが創刊された1952年という日付からその中間である1951年に両者が出会ったと結論した。
このときに大きな根拠となったのが、1992年に目白のレストラン「シルビア」で行われたグロータース傘寿の会の録音である。これはある時期にグロータースからかつて国語研究所の研究補助員だった湊豊子さんにカセットテープで託され、グロータースの没後に沢木がCD化して関係者に配布したものである。この会では2時間近くにわたって参加者がかわるがわるスピーチをしたのだが、グロータース、柴田、徳川宗賢の発言はLAJ、糸魚川調査、国語研究所について公にはこの三者も書いていないような貴重な証言となっている。後世のためにオーラルヒストリーとして研究所で保存すべきものだと思う。
このなかで柴田はグロータースに初めて会ったときのことを乾杯の発声とスピーチのなかで述べている。混乱するのは、1回目すなわち乾杯のときは「1950年9月20日ごろ」、40分後のスピーチのときは「春だったと記憶する。1953年か52年の5月」と年も違えば季節も正反対のことを言っていることだ。具体的な日付を言っているほうが正しいのではないかと思うが、春で間違っているとも言い切れない。どちらでも年を間違えているのは確かだ。
私は柴田(柴田先生)の記憶力には常々驚かされていたのだが、40年前の記憶がここまであやふやなのには逆の意味で驚きである。しかも、最初の会見のあと、グロータースが東京に転任するまで何もなかったという発言があるのだが、実際は二人のあいだに何らかの交渉があったと思われる間接的な証拠がある。かなり重要だったはずのその交渉をオミットしているのも不思議だ。ただし、それ以外の部分については細部の記憶が鮮明である。
人間の記憶というのはこんなものかもしれない。超人的な記憶の持ち主でも何十年も昔のことはある部分をまるっきり欠落させてしまう。それを見て凡人は安心するのだ。あの大先生でもこんなことがあると。
傘寿の会の録音の一部(柴田と徳川の発言)を文字化した。ダウンロードして見ていただきたい。分量が多い(全部で40分ぐらい)が、老人性の難聴のため声が急に小さくなったときなど聞き取りがうまくできなかったり(音量の急な変化に対応できない)する。したがって、粗々とした文字化とご理解いただきたい。細かいところを省略したり、固有名詞が怪しかったりするが、大筋は合っている。前述のように当事者しか知り得ない、後世の我々が初めて聞く話に満ちている。LAJが如何にして研究所の事業として企画されたか、グロータースはどうして国研に入り込んだか、糸魚川調査の最初の目的は何だったのか、LAJの調査項目は誰が選定したか、などである。
本当に貴重な資料であるのでグロータースさんのスピーチもふくめてきちんと文字化すべきである。そのときは若い耳で。
かなり分量があるので、そのつもりで読んでいただきたい。
なお、蛇足めいたことなのだが、今回の記事は佐藤亮一さんを回顧する小文を書く機会があったのと真田信治さんの訃報がきっかけだった。LAJに関わった人たちが次々に物故して歴史上の人物になってしまった。皆さんがお元気だったときにもっといろいろなことを聞いておけばよかったと思う。
いずれ私も彼らの仲間入りをするのだが、その前に私が知っていることやあまり知られていない資料の所在を書き残すことが私のささやかな義務なのではないか。
若い人はたぶん知らないであろう研究補助員の白沢宏枝さんのこともいつか書いておきたい。佐藤亮一さんと真田信治さんのことは方言研究の世界の人はみんな知っているが、白沢さんはそうではない。でも彼女は国語研究所で、そして方言研究の世界で重要な仕事をした人だった。忘れられてはならない人が忘れられることを少しでも防ぎたい。