ミツカとナチ

ミツカ(Walther Mitzka)はドイツ言語地図(Deutscher Sprachatlas)とドイツ単語地図(Deutscher Wortatlas)の編纂者として知られている。マルブルク大学のドイツ言語地図を100年以上にわたって出版している研究所のいわば顔として私は学生時代から知っている名前だった。
国研所蔵の外国言語地図の書誌データを調査する研究の一環としてドイツ言語地図とドイツ単語地図を調べているのだが、ミツカの生涯を知るためにウィキベディア(ドイツ語)を当たってみたらショッキングなことが書いてあった。
なんとミツカは1933年にナチス(Nazionalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei ドイツ国民社会主義労働者党)に入党していたというのだ。ナチスが政権を掌握したのが1933年でハイデッガーもこの年にナチスに入党している。
ナチス入党の動機については不明だが、ナチスはむしろ多くのドイツ国民に支持された結果として選挙に勝利したのであった。ドイツ国民の一部だけがナチス支持者だったわけではないのなら、ナチス入党は今の我々が思うほど奇異な行動ではなかったのかもしれない。ナチスに投票するのと入党するのは大きな違いがあるとしても。
ただ一つだけ言えるのはミツカが研究していたドイツ言語地図はプロイセンが主導して成立したドイツ帝国の版図を基礎としている。ナチスは大ドイツ主義を標榜する政党から発展したのでベルサイユ条約で縮小したドイツの領土にはあきたらなかった。その思いはミツカも持っていたに違いない。
ドイツ人が住んでいた東ヨーロッパは多民族が混住する多様性に富んだ地域だった。ドイツ人だけがいたわけではない。民族自決というが、その土地の最大多数がどの民族かで帰属する国家を決めるということをもししたら、東ヨーロッパはモザイクのようになってしまっただろう。ある町はユダヤ人、別の町はポーランド、その隣町はリトアニアという具合だ。
ザメンホフは今のポーランド北東部の町に生まれ、バベルの塔のような状況を見て万国共通語としてエスペラントを作ったのだった。
ドイツ人が多く暮らしているからドイツでなければならないというのは無茶な話で、その無茶を通そうとしたのが第二次世界大戦のきっかけの一つだった。ロシアの側から同じ無茶を通せば今のウクライナ戦争になってしまう。
東ヨーロッパでは第二次大戦後、ホロコーストの結果としてユダヤ人は一掃され、ドイツ人はオーデル川ナイセ川の西に追いやられた。第二次大戦前のドイツ語の分布状況はドイツ言語地図とドイツ単語地図でその大部分を知ることができる。
1933年以後主張を尖鋭化させていったナチスに対してハイデッガーは距離を置くようになる。ミツカはどうだったのかそのあたりのことはよく分からない。私の気持ちとしてはミツカがナチスの極端なゲルマン民族至上主義に賛同していたとは思いたくないのだが。
ミツカがナチスにどれだけ傾倒していたかをドイツ単語地図第1巻の序文から知ろうとしたのだが、そんなことはどこにも書いていない。蛇足ながら戦後のミツカはナチスとの関係が原因で一度教授資格を停止されている。その後しばらくして教授として復活した。

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