ことばの命 「落とし込む」

年はじめに講演をした。ことばの命をテーマに、消えた言葉と新しく生まれた言葉の話をしたのだが、「消えた」根拠に『三省堂国語辞典から消えたことば』を、「生まれた」ことを示す根拠に『新明解国語辞典』に新しく採録されたことを使った。『三省堂国語辞典から消えたことば』は便利な本で、どの言葉がいつの版から消えたかがよく分かる。『新明解国語辞典』はたまたま第2版から最新の第8版まで持っているので、ある言葉がどの版から採録されたかを調べるのは簡単にできる。
問題は、新しい言葉あるいは新しい用法だと私が知っているのにそれが『新明解』の最新版にない場合があることだ。一例として「落とし込む」という言葉を挙げる。(「グラフに情報を落とし込む」のような用法)
このような新しい語の場合は新聞のデータベースを調べればいつから使われるようになったか分かることが多い。新聞のデータベースは社によって違いがあるが、記事であれば多くの社で1980年代から始まっている(見出しだけであればもっと古い)。
そこで、大学図書館で簡単にアクセスできる信濃毎日新聞のデータベースを調べたところ、最古の用例として1998年のものが見つかった。このデータベースに入っている記事は1995年のものが一番古いので「落とし込む」の新しい用法は1998年ごろに始まったと考え、講演でもそう述べた。
ところが、そのすぐあとで『ウィーン世紀末文学選』(岩波文庫 池内紀編訳第14刷 初版は1989年)を読んでいたらこんな文章が目に入った。

「彼が口にしたそのことばを風がつかみ、運んで、見知らぬ生のなかに落としこんだ。」(ベーア=ホフマン「ある夢の記憶」)

これは新しい用法と言えるかどうか微妙な気もするが、そうだとすると私が思っていたのより9年早い。そこで、朝日クロスサーチで検索をしてみた。
すると朝日新聞の記事で「対外経済関係を対決の図式の中に落とし込まぬよう」(1989年5月2日朝刊)という用例が見つかった。朝日クロスサーチは朝日新聞だけでなく、週刊誌のアエラも(週刊朝日も?)対象にしているのだが、そのなかで一番古い用例となる。
「落とし込む」の新しい用法が1990年以前に始まったことはほぼ確定したようだ。このような新語・新用法は最初は世の中の一部の人が使い始め10年以上経ってから使用例が目立って増えてくる。データベースからはこのようなパターンが見てとれる。私のアンテナに新語・新用法としてひっかかって来るのはある程度その言葉が世の中に定着したときだと考えられる。新明解に採録されるのはさらにその10~20年あとだ。
「落とし込む」の新用法に気がついたのは2007年ごろだった。だからその9年近く前が信毎データベースでの初出と分かったとき、そのことに違和感はなかった。さらにその9年前の用例があったのは驚きだ。それは私が気がつく20年近く前から世の中のどこかで使う人がいたことになる。そんなことがあるのだろうか。でも、実際に用例があるのだから認めなければならない。
このように新聞記事のデータベースによって語の出現と定着のプロセスが可視化されるようになった。残念なことに1980年代前半より前に歴史が始まる語や用法はそれがいつなのかは分からないが、新明解にまだ採録されていないような語はその出現と定着をたどることができるのだ。新しく生まれたけれど定着せずうたかたのように消えていった語も調べられる。研究テーマとして誰か興味を持ってくれないだろうか。

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