松本サリン事件から30年になる。
私はたまたま東京の生家にいて、松本にはいなかったのだが、朝のニュースを聞いてこれは容易ならざる事態だとおもった。
松本に帰って大学に顔を出したら、講座の学生の一人が病院に入院したという。あとで聞いたら軽症だったようだが、娘の幼稚園の先生も同様で病院で手当を受けたとのことだった。8人が亡くなり、軽症者をふくめて被害者は600人(NHKの報道によれば140人あまり)に上った。
事件後間もなく大手の新聞も地元の新聞も近所に住む会社員のKさんが参考人として取り調べを受けていると報道をした。それを読んだ人がKさんに疑いを持つような書き方である。
特に熱心だったのは地元の権威である信濃毎日新聞で、Kさんがタクシーで「オレは原爆のように世界を破壊できるものを持っている」と運転手に言ったという真偽不明の状況証拠にもならないような話を次々に書きたてた。善良な松本の人たちは信毎の言うことはみんな真実だと思っているのでKさんを真犯人に違いないと信じた。
Kさんの奥さんも被害者だった。直接死には至らなかったが、事件が起きてから何年も寝たきりでKさんと会話もできないまま世を去ることになる。そのかわいそうなKさんが、妻を殺害するために毒ガスを発生させたというストーリーを地元の人たちは信じさせられていた。
あとで考えれば、警察は地元の新聞との特別な関係を利用して自分たちに有利な作り話をリークしたのではないか。信毎は信毎で他社の追随を許さない特ダネを連発したつもりになっていたのだろう。私は信毎の読者ではなかったので、怪しげな話を聞いてもそれを証拠にKさんを犯人と決めつけることはできないと思っていた。
8月になってテレビ朝日の「ニュースステーション」で事件当時の風向きを根拠にKさんの無実を主張した。警察はKさんが農薬からサリンを作ったと考えていたが、「ニュースステーション」はそれは不可能であると説明した。
私はそれを見てKさんの無実を確信したが、私の周囲の人はそうではなかった。松本警察は一貫してKさんを疑っていたし、警察のスポークスマンと化した信毎の読者も魔術にかかったようにKさんが犯人だと信じていた。
翌年3月の地下鉄サリン事件が起きてKさんの疑いが晴れたのだが、朝日新聞を始めとするマスコミが次々とKさんに謝罪しても信毎は頑として謝罪しようとしなかった。Kさんが告訴をちらつかせたあとで渋々謝罪をした。
もっとひどかったのが松本警察で、国家公安委員長の村井仁がKさんの家に足を運んで謝罪をしたのに、松本警察は頑として謝罪を拒否した。
この事件の一部始終を見聞きして私が思ったのは信毎と松本警察の知的レベルの低さだった。警察は江戸時代以来の自白第一主義にしがみついて何とかしてKさんから自白を引き出そうとしていた。信毎は警察と共犯関係になって警察の代弁者を演じていた。
サリンの化学式(事件以後化学式をネットで探しても容易に見つからない)をちらっと見たところ、フッ素がそのなかに入っている。恐らくKさんが持っていた農薬にはフッ素はないのではないか。もしそうならそれだけでKさんは無実だと分かる。
フッ素というのは非常に取扱が難しい元素で、もちろん毒性もあるしほかの元素と結合する力もとても強い。サリンを作ろうとしてもそこにたどりつく前に別の毒ガスができるはずだ。サリン自体の毒性もとんでもなく強い。とても庭先で作れるものではない。
フッ素がどんな元素かは高校の化学で学ぶので、そこから出発すればKさんとサリンを結び付けるものが全くないと分かるはずだ。それが分からないとは警察と信毎の知性は高校生にも劣ることになる。
一連の出来事は熊井啓監督の「日本の黒い夏-冤罪」を見ていただくのがいいと思う。警察の自白第一主義によるKさんに対する連日の取り調べ、Kさんの不屈の抵抗がよく分かる。
この事件以後、私はマスコミが信用できなくなった。新聞や放送局はは警察や役所の記者クラブを通して情報を得るのだが、そうなると警察や役所にとって不利な情報を報道することができない。役所の機嫌を損ねれば記者クラブに出禁になってしまうからだ。
最近では鹿児島県警の本部長の隠蔽行為や小池百合子氏の学歴詐称問題をマスコミがまともに報じていないのがそれに当たる。前者はもっと早く報道すべきだったし、後者に至っては小池氏が公職選挙法違反で告訴されていることを(たぶん選挙期間中であることを口実に)まったく報じていない。
こんなことが毎年のように起きている。消えた年金問題も顕在化するずっと前から起きていた話で、それを調査して報道するのがマスコミの使命だったはずだ。
つまらないことを言うようだが、我が地元のサッカーチーム、松本山雅がJ3に降格したときもそうだ。J1にいたチームがあっという間にJ3まで落ちた。私は球団の責任が大きいと思っていたが、信毎(定期購読していないのでコンビニに行って買ってきた)は奥歯にものが挟まったような言い方だった。驚いたのはサッカージャーナリストのMさんで、松本出身の彼女まで球団の責任を不問にした。どちらも真実を報道することより、球団との関係を優先したのだろう。
松本山雅はJ1の下位のチームより一時は収入が多かったのにそのありあまるお金を選手の強化に振り向けることが少なかった。後方支援の弱さがマイナスに働いたとしか思えない。