9月11日の「ブラタモリ」は松本城だった。
家人曰く「内容が薄かった」。私も同感だが、それはたまたま松本城に関する諸々を知ってしまったからなのかもしれない。
あの月見櫓で市役所の女子職員を御殿女中に見立てて月見の宴をした市長がいた(過去30年ではなく、もっと昔の話)こと、保存運動の結果、天守が残ったこと、沼地に松の丸太が何百本も放り込まれてその上に城が建っていることなど、お城には面白い話がたくさんある。
女鳥羽川を天然の堀として活用するために流路を変えた話は予想通りブラタモリで取り上げられたが、「お城の近くで直角にコースを変えるのは天然のままか人の手が加わったか分からない」という扱いだったのは意外だった。
もともと川の氾濫が頻繁に起きていたのを、石川数正父子が治水事業を行って暴れ川でなくしたという言い伝えがあり、女鳥羽川沿いに父子を祀った鎮(しずめ)神社という小社があったりする。家康にとっては秀吉のもとに走った裏切り者の数正を祀る神社があるのは驚きだ。松本城の天守は430年前に石川数正父子が建てたもので、そのときに堀や土塁も作り、ついでに女鳥羽川に手を入れたに違いないと思っていたので、ブラタモリは意外だった。
国土地理院の地形図を見ると女鳥羽川と平行して北から南に流れる3本の川がある。城の西側で合流して1本の川となる。大門沢(だいもんざわ)川と言う。松本の町中を流れるうちにかなり深く谷をうがっている。古地図を見ると下級武士が居住していた地区は大門沢川の東にあり、そこから西は町の外だったようだ。
「氾濫に悩まされていた川」は大門沢川であったらしい。現在の大門沢川はそこまで水害のもとになったりはしていない。私は今の女鳥羽川の水の一部が大門沢川に注ぎ込んでいたために、氾濫を繰り返していたのではないかと思っていた。石川数正は女鳥羽川の上流からの水がすべて女鳥羽川に流れるように改修し、城の近傍の女鳥羽川の流路をなめらかな曲線にして掘り下げ川幅を拡げたのではないだろうか。掘り下げた結果として奈良井川からの船が城の近くまで来ることができ、そこに港(船着き場)が作られた。
川は平野部で流路を変えることを何度も繰り返す。地形図を見ると女鳥羽川が盆地に入ってきたところで今の流路より西側に流れる可能性があることがわかる。東西2本の川に分流してもおかしくない。西側の流れは大門沢川に合流する。石川数正が松本に入ったとき、まさにその状態だったと考えられる。
と今まで考えていたのだが、改修前の女鳥羽川は町の地面の高さで流れていたのかもしれない。そうだとしたら、氾濫を繰り返したのは女鳥羽川のほうだったのかもしれない。現在の女鳥羽川の流れは人の手により掘り下げられていることが明らかである。町の平面よりずっと下に水面がある。こうなってみるとちょっとやそっとで氾濫は起きない。また、どうせ掘り下げるのであれば、河道を多少変えても手間が大きく増えるわけではない。岩盤は地面のはるか下なので、掘るのは岩を削るのに比べればずっと楽である。今の女鳥羽川はお城の東側と南側の外堀になるような形で曲がっている。人工的にそうしたようにしか(私には)見えない。
江戸時代の護岸が残っていればいろいろなことがわかるはずだが、残念ながらそれはないらしい。
地形図を眺めていると、こうして妄想がつのってくる。地図遊びはやめられない。