以前、あるところで方言における「言語島」について説明を要求されたことがある。調べてみるとたとえば『大日本語学事典』には言語島という項目はない。ただ、方言の概説書などではときどき見かける言葉ではある。
結局説明をあきらめてしまったのだが、あるときドイツ語でSprachinselと言うことを知った。Sprachは言語、Inselは島なので、言語島そのままなのだが、ドイツ語のほうはずっと前からあった言葉だ。日本語の言語島はドイツ語から来ているらしい。
ではSprachinselとはどんなものか。
たとえば、ハンガリーに行くとドイツ人だけの村があったりする。ハンガリー人の海のなかにぽつんと存在するドイツ人の島のようだ。このようなコロニーは第二次大戦前は東ヨーロッパのいたるところに存在していた。スラブ系の言語の分布域にも、ハンガリー語やルーマニア語の地域にもあった。遠くベッサラビア(今のモルドバ)やスロベニアにもあった。これは例のドイツ言語地図(Deutscher Sprachatlas)でも確かめることができる。ただし、ベッサラビアはソ連の内部なので調査地域に入っていない。
このような言語島が生じたのは東方植民(Ostsiedlung)によるところが大きい。かなり私の妄想が入った話なので以下は「そういうこともあるのか」ぐらいに読んでいただいきたい。
まず、中世温暖化という現象があって900年から1300年にかけて気温が高めになり、食料生産が盛んになったために人口が増加した。人口圧力によってドイツ人は領域外に出て農地を求めるようになった。これが東方植民である。ポーランドの南部より南では森を切り開いてコロニーを作ることが多かった(チェコ、スロバキア、ハンガリー、ルーマニアなど)が、バルト海沿岸(東プロシア)ではドイツ語でHeideと呼ばれる荒れ地に大量に入植した。もともと耕作に適さない土地だったが、温暖化でかなり条件がよくなったということもあるらしい。東プロシアはドイツ騎士団が暴れて先住民族だったプロシア人(絶滅した)、スラブ系民族、リトアニア人、ラトビア人、エストニア人を圧迫したのだが、結果としてスラブ系民族にドイツ人、ユダヤ人、リトアニア人が混じった多民族社会になった。(エストニア、ラトビアは東プロシアの領域外)
ヨーロッパではいろいろな言語を母語とする民族が入り交じっているので、Sprachinselはたまたまドイツ語話者によるものが目立っているだけでドイツ語話者に限った話ではないのではないか。たとえばハンガリーと国境を接しているセルビアやスロバキアにもハンガリー語のSprachinselがあるのだろうと想像される。
というわけで、Sprachinselは方言の世界で言っている言語島とはかなり異なっているように思う。前者は他言語の海の中に存在している言語社会でこれは言語が違うのだから海と島のようにはっきりした差がある。後者は方言の違いだから、どの程度違っていたら島と呼べるのかまさに程度問題ということになる。
言語一般の言語島と日本の方言で言う言語島がちょっと違うということは知っておいたほうがよいと思う。
余談になるが多言語社会に関連したことを一つだけ述べたい。
民族自決という言葉がある。ある言語を母語とする民族は一つにまとまって国家を形成するという建前を言っているのだが、これを貫徹しようとすると今度は民族浄化というおぞましい言葉が出てくる。一つの国家の中に複数の民族がいることは民族自決の原則からすると都合の悪いことであり、少数民族は排除されるべき存在ということになる。つまり、民族自決は民族浄化とセットなのだ。排除される民族にとって民族自決という言葉は決して美しいものではない。
第二次世界大戦後ポーランドは東側のかなりの部分をソ連に取られた。ウクライナの西部、ベラルーシの西部、リトアニアの現在の首都ビルニュスの周辺などである。ウクライナ、ベラルーシ、リトアニアは大戦後ソ連だった。ポーランドはその代わりに東プロシアの大部分とドイツの東側の領域を新しい領土とした。国土の面積を変えずに東から西に移動したような形になる。
東プロシアを含めドイツ領だった地域はポーランド人も暮らしていた(だから民族自決が適用された)が、ドイツ人もいた。戦後これらの地域のドイツ人は故郷を追われることになった。チェコのズデーテン地方のドイツ人も同様。これも民族浄化の一つの形態である。