松本市のあれこれを取り上げるミニコミ誌「松本の本」が4号目を迎えた。今回の特集は「楽都松本?!」と銘打っていたが私から見れば期待外れの内容だった。
「楽都松本」と言い出したのは市役所だったと思う。その根拠は松本に才能教育研究会の本部があり、サイトウキネンフェスティバルの会場にもなっているからということだったはずである。ところが、『松本の本』ではそのことには軽く触れるだけで記事の大部分はジャズや歌謡曲(スナックのママがコンサートを開いた)、それからちょっとマイナーなジャンルのポップスの話になっている。このミニコミ誌は一人で企画編集しているらしいのだが、クラシックに関心がないものと見える。
ジャズやポップスを軽んじるわけではない。だが、特集が楽都松本と銘打っているのにサイトウキネンフェスティバル(今はセイジオザワ松本フェスティバルだが、ここではサイトウキネンフェスティバルで通すことにする)と才能教育研究会のことをほとんど素通りしてしまうのはまずいと思う。この二つが松本という町に与えた影響はとても大きいし、それに関わった人たちの数もジャズの比ではない(と思われる)ので場違いであるのは承知のうえでこのブログで取り上げることにする。
まず才能教育研究会だが、これは子供の音楽教育の団体である。
海外では鈴木メソッドとして知られていてアメリカやヨーロッパなどにも支部がある。特にアメリカでは盛んで日本人の名前で一番知られているのはスズキだという話があるくらいである。今はオータニかもしれないが。
最初に述べたように才能教育の本部は松本市にある。世界的な組織の中心が小さな地方都市にあるのは珍しいことだが、これは創設者の鈴木鎮一さんが疎開先の松本で才能教育研究会を立ち上げたことによる。全国的には知名度が低い才能教育のことを松本では多くの人が知っている。
才能教育では就学前から楽器の演奏をすることが奨励されている。小さいときから音楽に触れることで心の成長を促すことができると信じられているのである。才能教育の教室で多いのはピアノよりバイオリンで松本の子供達にとってバイオリンは決して珍しいものではない。バイオリンケースをぶら下げて歩いている若い人は町の風景になっている。
夏になると1週間にわたって全国から才能教育の子供達と親が集まる。夏期学校である。親たちにとっては避暑であり、子供達にとってはふだんの交流がない他教室の生徒と知り合う機会であり、他教室の先生たちからみっちり教わる機会でもある。
何年か一度のことになるが、世界大会が松本で行われることもある。世界中から才能教育の音楽教師や生徒とその親が集まるのだから壮観である。会期中毎日のようにコンサートがあり、合奏や独奏が披露される。今をときめくチェロ奏者の宮田大さんが中学生?のときにこのコンサートでガスパールカサドの無伴奏ソナタを弾いていた。実は私の娘が才能教育でチェロを習っていて私は付き添いをしていたのだ。世界大会の期間中娘はイタリア人のM先生に教わっていた。夏期学校もそうだが、いつもと違う先生に習うのは大きな刺激になる。
夏期学校も世界大会も部外者には全く知られていなくて内輪だけで盛り上がっているのだが、サイトウキネンは違った。サイトウキネンフェスティバルは夏の2週間にわたってオペラとシンフォニーのコンサートを中心にさまざまなコンサートや催しが行われる国際的な音楽祭である。このような大がかりな音楽祭を運営するためには大量のボランティアが必要とされる。松本市民を中心にボランティアが募られ30年以上にわたって運営に携わってきた。また1992年にフェスティバルが始まったときから、「世界の小澤征爾が指揮するすごいオーケストラ(サイトウキネンオーケストラ)が松本で聞ける」という理由でふだんクラシックに縁のない生活をしている人も列をなしてチケットを買った。
もちろんフェスティバルの聴衆は松本市とその近隣の市町村だけでなく、日本全国からさらには世界中から来ていたのだが、多くは松本市からだった。特にウェブでチケットが買えるようになる20年前までは松本の会場に前売りチケットの多くが割り当てられていたのでそこで列に並んで買ったものだった。
サイトウキネンオーケストラはもともと齋藤秀雄さんというチェロ奏者で指揮者の人(英語学者の斉藤秀三郎の子でもある)に教えを受けた演奏者や指揮者で構成される祝祭オーケストラなのだが、管楽器などは海外の一流奏者も入っていた。あるとき、行きつけの酒屋でワインを選んでいたら酒屋の主人が「いつまでこちらに?」と外人の男性に尋ねている。「あと1週間ここにいます」と自然な日本語で男性が答える。
男性が出て行ったあとで誰だったのか主人に尋ねると「カールライスターさんです。お気に入りのワインを買いによく来られるんですよ」。それを聞いてひっくり返りそうになった。カールライスターと言ったらベルリンフィルのクラリネット奏者でクラシックに詳しい人だったら誰でも知っている。そんな人が普通にこの町で買い物をしているのだ。しかも違和感のない日本語を話している。
サイトウキネンフェスティバルはそんな感じで町と一体化している。ただ、小澤征爾亡き今はネームバリューのある指揮者を呼べず低迷しているように見える。もともとが斉藤秀雄のお弟子さんを集めてできたオーケストラだったが、直接の弟子がつぎつぎに現役でなくなった今サイトウキネンを名乗る資格があるのかまた毎夏オーケストラを結成する意義があるのか疑問だ。何事も終わりがある。このフェスティバルに幕を引くときは近いのかもしれない。
市役所が楽都を名乗るのは故なしとしないが、でも仮にサイトウキネンフェスティバルがなくなっても胸を張ってそう言えるのだろうか。