言語地図と現代史

 国研が所蔵している世界中の言語地図を調査する研究費をいただいている。

 まだその10分の1も調べることができていないのだが、分かってきたことが一つある。それは、ヨーロッパの言語地図は何らかの形で現代史が影を落としているということだ。
 その典型的な例がドイツ言語地図だ。調査が始まったのは1874年、プロシア主導でドイツ帝国が成立した3年後である。ヴェンカーはドイツ帝国の人間だったので、ドイツ帝国内の学校の先生に通信調査の調査票を送りつけた。
 ヴェンカーの調査の目的はドイツ語の音韻変化を地理的な分布としてとらえることだった。ドイツ語が当時話されていたのはドイツ帝国だけではなかった。現在のオーストリアの範囲内ではドイツ人が圧倒的多数だった(もちろん今も)し、東ヨーロッパの各地にドイツ人の集落やドイツ人が多く暮らす都市があった。東ヨーロッパはドイツ人を含めた多くの民族が混住する多様性にとんだ地域だったのだ。
 さらに言えば、ロシア帝国内のボルガ川周辺にはエカテリーナが移住させたドイツ人が100万人も暮らしていた。(ピアニストのリヒテルはその末裔だった)
 ドイツ語全体の歴史を知るためにはドイツ帝国内だけを調べたのでは不十分だったが、ヴェンカーはオーストリア・ハンガリー帝国内には調査票を送らなかったらしい。プロシアは1866年にオーストリアと戦争をして勝ち、オーストリア抜きのドイツ統一を行った。そのような経緯も関係しているかもしれない。
 今、ヴェンカーの調査結果をミツカが地図化したものを見ると、第一次大戦以前のドイツの領土が記号の海として浮かび上がっている。現在のドイツはポーランドとの国境が当時より西に動いている。今はポーランド中部の町ポズナニがドイツの領土だった。そして、ポーランドの南に舌状に伸びているシレジア、北はバルト海沿岸のポンメルンもドイツ領、さらにバルト海沿いにリトアニアまでずっと続いていたのが東プロシアで、これもドイツ帝国の領土だった。
 第二次世界大戦の結果、ポンメルン、シレジアはポーランドの領土となり、東プロシアの大部分はポーランド、さらにその東はソ連のものとなって、ドイツ人は退去させられた。戦争中に東ヨーロッパに何百万人もいたユダヤ人がほぼ根絶させられたことと同列に論じることはできないが、東プロシア消滅も現代史の過酷な一面と言えよう。
 したがって、ヴェンカーの調査と同じものは150年後の今日やろうとしてもできないのである。ドイツ人がいた集落、ドイツ人が他民族と混住していた都市には今ドイツ人はいないのだから。
 ポップの「方言学」は20世紀半ばまでのヨーロッパの方言学史の書として貴重なものだが、ドイツにおける方言研究の扱いが軽い。このことにも現代史が影を落としているのだろうか。亡命ルーマニア人のポップにはホロコーストを行ったドイツに対して尋常ならざるわだかまりを持っていたためにドイツへの評価をこのような形でしめしたのだろうか。。

 スペインとポルトガルを舞台とする『イベリア半島言語地図』の調査の大部分は大戦前に行われた。ところが、1936年にスペインで内戦が始まり、資料はバレンシア、バルセロナと避難を続け、パリに行き、今度はドイツとの戦争を避けて最終的にニューヨークのコロンビア大学に安住の地を見つける。
 1975年にフランコが死んで独裁が終わり、1990年にManuel Alvarがニューヨークに行って資料を引き取って地図の編集が始まった。
 これも現代史に翻弄された例と言えるだろう。

 EUというのは、ドイツに二度と戦争を起こさせないためのものと言ってもいい。戦争ではなく平和的な形で統一ヨーロッパが明るい未来を目指そうというものだ。
 そのEUに加盟していないヨーロッパの国は多い。スイス、アイスランドだけでなく、スロベニア以外の旧ユーゴスラビアの諸国、バルト三国以外の旧ソ連に属していた諸国もEU未加入だ。これに対して旧ソ連を含めたヨーロッパ全体のことばの分布を考えようというのがALE(ヨーロッパ言語地図)のコンセプトである。EUが理想とする姿を言語の世界で実現したものと言える。このプロジェクトが始まったときプロジェクトの主体であるルーマニアはまだEUに加盟していなかったのだが。
 キュウリやジャガイモをそれぞれの土地で何と言うかを地図化すると言語の違いを超えた語の伝播が見えてくる。それは統合されたヨーロッパという視点から見える言語群の姿と言える。ドイツ言語地図が過去の歴史を反映しているのとは逆に、未来の理想とされるヨーロッパが言語地図に現れている。そしてその理想は国と国が常に争っていたヨーロッパの過去があったために生まれたものだ。 

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