蝙蝠の弁

 学生のときに妙に博識な先輩が「私は鳥なき里の蝙蝠(こうもり)みたいなもので」と言っているのを聞いて「そんな言い方があるのか」と思ったものだった。辞書に載っている意味は「実力のないものばかりがいるところでほんの少しだけ実力の勝っているものがはばをきかせる様子」とある。なにかの折にふっと思い出すフレーズである。
 そう、私は蝙蝠なのだ。大学は言語学科だったが、言語学よりはドイツ語の授業のほうが好きだったりした。だからと言ってドイツ語やドイツ文学の研究に本腰を入れる気はなかった。国語研究所に入って方言研究の世界を知ってみるとそこにいるのは国語学や国文学の専攻を出た人ばかりだった。言語学出身は少数派だった。いつも、多数派ではなく、どっちつかずの少数派なのである。
 でも、あるときからそれが自分の取り柄であり、アイデンティティだと思うようになった。たとえば、コンピューターのプログラムを組むことにしても、日本の方言研究の世界でそれができる人はあの人とあの人と名前を挙げられるぐらいしかいない。私はプログラマーとしては大したことはないが、ほかに私のテーマでコンピューターを使う人がいないおかげで先駆的な仕事ができる。本当に嘘のように簡単なプログラムで新しいことができるのである。どうして若い人でプログラミングをやろうとする人がいないのか不思議だ。私だって競争相手がいれば、もっと高いレベルに行けるかもしれないのだ。
 ドイツ語やフランス語が読める方言研究者はもっと少ない。私はたまたまほんの少しこの二つの言語を読めるのでほかの人が使えない文献が使えたりする。グロータースのお父さんがどういう人だったかはフランス語の記事が読めないとわからない。グロータースが尊敬していたRousselot(ルスロー)が日本ではほとんど知られていないのもフランス語で論文を書いたからだ。フランス語が読める方言研究者が増えて欲しいと切に思う。ドイツ語もだけれども。
 でもやはり蝙蝠の悲しさ、専門に独仏語を研究している人とは雲泥の差があるのを自覚する。
 ところで、鳥なき里の蝙蝠という成句は「蝙蝠は飛行が鳥より下手である」ことを含意していると思われる。ところがどっこいコウモリは非常に飛行能力が高い。そうでなければ飛んでいる虫を空中で捕まえることなどできるわけがない。自分を蝙蝠にたとえるなど蝙蝠に対して失礼なことであった。

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カテゴリー: 雑文

2件のコメント

    1. 「蝙蝠発言」は亀井孝先生ではないか、ということですね。いや、別の方です。頭の良さを持て余している方ではありましたが。
      亀井先生は偉大過ぎて自分の先輩として考えたことはありません。でも、亀井先生もそのことわざをお使いになっていたのですね。私は亀井先生の語学力に及びもつきませんが、ちょっとうれしいかな。

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