沖縄・奄美の方言調査から

奄美沖縄調査の旅と言えば、まっさきに思い浮かべるのは船旅のことである。
琉球諸島に行くのに飛行機を使うこともできる。残念ながら、暇はあるが金はない学生時代が遠く去った今、飛行機を利用することが多くなっている。しかし、飛行機はあくまでも移動のためのもので、SFで言うテレポーションのようなものだ。A地点からB地点まであっという間に運んでくれる。飛行機に乗っているときには旅を意識するまえに目的地に着いてしまう。
船はそうではない。今は定期航路の便数が少なくなってしまったようだが、東京から那覇までだったら、船中二泊しなければたどりつけない。そのあいだに海の色が少しずつ変わり、空気が変わっていくのも感じることができる。飛び魚が本当に飛ぶところを見ることもできるし、まれにだけれどイルカの群れが跳びはねているのを見ることだってできる。船旅のあいだにゆっくり時間をかけて、自分を沖縄の色に染めていき、長期の調査に対する心構えを作るのである。
学生のころはいつも二等船室を利用したものだ。船室と言っても大広間のようなところで、一人分の枕と毛布をあてがわれて雑魚寝である。隣の人と話をすることもある。四〇時間近く一緒にいるのだから、話をするのが当然のような気もするのだが、知らない同士ゆっくり話をすることは案外少ないのだ。しかし、そうして知り合いになった人たちとの会話は二〇年以上たった今も心に残っている。
あるときは一年をかけて世界一周をし、アフリカから最後の目的地沖縄に行って、そこから東京行きの船に乗り込んだ青年と話をしたことがある。また、別のときには調査ノートをひろげて調査項目の検討をしていたら、隣から「そのpagama(釜)というのは僕の郷里のことばじゃないか」と言う声がする。話を聞いてみると、宮古島から東京の大学の歯学部に進学した学生だった。またあるときは首里高校から本土の大学に進学した一団と甲板で酒盛りをした。このときは彼ら同士のあいだで交わされる沖縄口が分からなくて閉口した。
何日もかけて旅をするとは、そのなかに生活が入り込んで来ることでもある。船の食堂に行って使うお金を惜しんで、船室でカップラーメンを食べる人がいる。台風の避難などで予定外の日数がかかると、赤ちゃんを連れたお母さんは洗ったおむつを船室の天井に渡したひもにかけて干したりする。船の中に奄美沖縄のふだんの生活が侵入しているのだ。しかし、これも決して悪いものではない。芸大の故小泉文夫先生のゼミが船旅をしたときは、沖縄の人たちと三線を演奏し合ったりして一大民謡大会になったと聞いたことがある。
さて、奄美沖縄では台風がつきものである。飛行機だったら危ないと思えば飛ばない。しかし、船の場合は定期船なので出航時に台風に直撃されたのでもなければ、予定通り出航し航路の途中で台風に遭遇するということが起こりえる。その場合には安全な島影に避難し、台風が通り過ぎるのを待つ。
10回に満たない奄美沖縄航路の往復で台風にぶつかったことが3回あり、そのうち2回は避難をし、1回は強行突破だった。しかし、それはそれで非常に印象深い旅になった。
最初に避難をしたとき、避難先は奄美大島とその南の加計呂間島のあいだの「瀬戸内」と呼ばれる海峡の内湾だった。一緒に船に乗っていた人の話によれば、旧帝国艦隊がそっくり隠れることができたということで、なるほど風よけの山はあり、海岸線は入り組んでいて外海の荒波を防いでくれるスケールの大きな避難場所である。ほかにも避難している貨物船などを何隻も見ることができた。
船に積み込んである食料は正規の日数分しかないが、補給船がやってきて補充をするから飢え死にする心配はない。正規の日数が過ぎると船の食堂は無料の炊き出しとなる。焼き飯かカレーライスだったと記憶するのだが、日が経つにつれカレーの汁が薄く、肉も少なくなったような気がして閉口した。
瀬戸内の湾内にいるときは波もなく、天気も穏やかでむしろ退屈した。今考えると台風は沖縄近海に停滞していたのだろう。退屈しのぎに釣りをして、船底にはりついていた小判ザメを釣り上げ困惑していた人もいた。
二度目に避難をしたのは柴田武先生のゼミの言語調査(2年目)で徳之島に行ったときだ。このときはまず鹿児島湾内に避難し、それから天草沖に避難をしたのだが、直撃を避けて鹿児島に行ったはずが危なくなってそこを逃げ出し、天草に行ってやれやれと思ったら今度はそこにも台風が追いかけてきた。
なお、避難先に知人がいるからそこで一時下船をしたいと思ってもそれはできない。路線バスがバス停以外で人を乗せたり降ろしたりできないのとおなじことで、寄港地以外で下船するのは急病にでもならないかぎり無理である。
このときも二、三日余計にかかったが、若い人が多かったので不穏な空気が生まれるのを心配したのだろうか、船の事務長は某大学の軽音楽部が乗船しているのを幸い、食堂で生演奏つきディスコ大会を開いた。事務長の思惑は当たり、船客の大部分は狭いところに何日も閉じ込められた憂さを大いに発散させた。白状するが、ディスコなるもの(このごろはクラブというらしいが)を経験したのはあとにも先にもこのときだけである。
やっとのことで徳之島にたどりついたとき、「岸壁がこわれたのではしけに乗ってください」との放送があった。たしかに岸壁のコンクリートははがされ、中の土がむき出しになっていた。よほど激しい波の力だったのだろう。
徳之島では台風直後だったにもかかわらず、皆さん歓待してくださった。あるインフォーマントのお宅にうかがったときは、家の屋根が飛ばされ、濡れた布団を外に干してあった。でもインフォーマントは困った風ではなかった。島の人の底抜けの生命力と明るさを感じた。
台風を突っ切ったのは1回目の調査の帰りの船である。短時間ならこのとき以外にも台風を強行突破したことはあるが、それは東京から沖縄に向かうときのことである。復路は台風と船の移動する方向が同じになる関係で揺れを感じる時間が非常に長くなる。
徳之島は何とか船で出ることができた。ところが、台風が迫ってきて途中の名瀬港で全員下ろされてしまう。嵐のなか東京に向かうことはできないと言うのだ。まだ雨は降っていなかったが、港は下船させられた人たちで一杯だった。ほかの船の人もいたかもしれない。このまま島に閉じ込められるのかと思ったら、神戸に行く別の船会社の船は出ることが分かった。地獄に仏とはこのことだと大喜びしたが、実はこれが悪夢の始まりだった。
出航した船を追いかけるようにして台風が迫ってくる。やがて、船は台風に包み込まれるようなかたちになった。台風も船も同じようなコースで本土を目指したので、航海の大部分は台風と同道とあいなった。5000トン級の船で今まで経験したことのない揺れは船が台風に追い抜かれるまで続いた。
私の仲間もほかの船客も死んだようになって船室に横になっていた。誰もあえて立って歩こうとしない。当然のことながら食堂も売店も閉店していた。そのうち、天井から水滴が落ちてきた。ドンという大きな音とともに激しい揺れがあり、しばらくすると船室の区画のあいだの通路が水びたしとなり、船の揺れとともに通路にあったサンダル類があっちに漂い、次の瞬間には反対側に漂った。仲間は横になったまま「もうだめだ」とつぶやいている。
私はしばらくあたりを見回していたが、船がまっぷたつになったりする兆候は別にない。そのうちに船室の片隅にある給湯器から水が流れ出していることに気がついた。給湯器はセルフサービスでお茶を飲むためのものだったが、そのなかに入っている水槽が揺れのためにはずれて、水が止まらなくなっているのだと見当がついた。
すぐ、乗務員を探しに行って、水を止めてもらった。
今となっては笑い話だが、このときの5人の仲間は何かの折りに集まると、かならずこの話をする。そのたびに座は大いに盛り上がる。たとえ勘違いであっても生死を共にした仲間のきずなは強い。
船の揺れの話を書いていたらきりがない。ずいぶんひどい目にあっているはずなのに嫌な思い出になっていないのは、私が船酔いをしない体質だからだろう。できるだけ多くの人に船旅の楽しさを知って欲しいのだが、大抵の人は船酔いに対する恐怖が先に立つようだ。
最近のフェリーは二〇数年前の船にくらべてずっと快適になっている。気持ちが悪くなるほど強烈だったペンキの臭いがまったくしないし、浴室も広い。旅を快適にする工夫が随所に施されている。昔の船に満足できなかった人も今のフェリーだったらそれなりに楽しめるのではないだろうか。最初は船酔いに悩まされても、二回目三回目と慣れるにつれて平気になってくるはずだ。(この原稿執筆時から20年が経過して船旅はさらに不人気になって、東京から奄美沖縄を目指す定期航路はなくなり、関西方面からの航路がそれに続いた。)
現地に着いて調査を始めてしまうと旅を感じることはあまりない。一定のペースで調査を続けるのは、日常性を作り出すことにつながるからだろう。
九学会連合の調査で奄美大島に行ったとき、徳之島の数年後で奄美は初めてでなかったのにもかかわらず、まわりがはっきりした目鼻だちの奄美の人ばかりなのにショックを感じた。おそらく飛行機で行ったために急激な変化を感じたのだろう。ところが、まわりの人たちも私をじろじろ見るのだ。同じようなショックを逆の立場で感じているのが分かった。
それから一週間たったころ、自分がまわりの視線を前のように集めないのに気がついた。自分自身もまわりが気にならなくなっている。行動を共にしていたSさんを見ていてわかった。Sさんは歩き方も身のこなしもゆったりとしていた。一週間のあいだにSさんは周囲に同化してせかせかとした動作をしなくなっていたのだ。きっと私もおなじだったに違いない。言い換えれば、新しい日常性を身にまとったことになろうか。単なる外見のちがいより動作のちがいのほうが強烈な印象を与えること、人間には無意識に同化する能力が備わっていることを知ったのは大きな発見だった。
調査期間中の坦々とした日々にもあとから何度も思い出すような出来事がある。私が行っていたのは宮古諸島の伊良部島だったが、そこでは日中、暑さを避けて木陰にござを出し、「おばあ」たちがジャスミン茶を飲みながら話をすることがあった。そこにお相伴させていただいて彼女たちの雑談の断片を拾い上げるようにしてぼんやり聞きながら、くろぐろとした福木(家の近くなどによく植えられている大きくて厚い葉の常緑樹)の緑の向こうの苛烈な光に照らされた、かわいた風景を見ていた。涼しい木陰と対照的なながめだった。
また、あるときは星空の下で路上にござをひろげ、お世話になった家のご主人や近所の人と酒を酌み交わしたこともあった。どんなに暑い日でも夜になって外に出れば風もあるので快適である。今考えてみると満天の星の下で酒が飲めたのはぜいたくなことだった。
そのときは何でもないように思えるが、あとで思い出してみると貴重な体験であったということが調査期間中にはいくらでもある。そのときは旅を意識しないけれど、ずっとあとになってそれがかけがえのない瞬間だったことが分かる。
旅は追想のなかに存在している。

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