30年前にウイーンで買った『ドイツ民話集』(Deutsche Volksmärchen, Eugen Diederichs Verlag 1990)を久しぶりに開いたら思わぬ拾いものをいくつもした気分になった。
全部で82編の民話が収められているが、最初の7編は東プロシアのものである。東プロシアは「現代史と言語地図」でも書いたあの東プロシアで、れっきとしたドイツ帝国の領土の一部だった。池内紀さんの『消えた国追われた人々』は東プロシアだった土地を訪ね歩いた話を書いているのだが、そのなかで私が学生時代好んで読んでいたE.T.A.ホフマンが東プロシアの出身と知ってこの土地に対する関心がさらに強まったのだった。
巻頭に収められた話を読み始めたところ、それが長い間探し求めていた話であることに気がついた。子供の頃、講談社の『少年少女世界文学全集』が毎月配本されてくるのが楽しみだった。そのなかにドイツの民話を収めた巻があり、そのなかの1編が印象に残っていた。その本を手放したあとでその話が「民話集」のようなものに入っているかと探してみたのだが、見つからない。それがこんなところにあったのだ。
話そのものは今読んでみると素朴でグリム童話のように整えられてはいない。男の子二人の兄弟がそれぞれ兎と狐と熊とライオンを家来に従えて幸運を探しに旅に出、分かれ道に来たところでナイフを木に突き刺す。ナイフにさびが出ていたらどちらかが病気で、さびてぼろぼろになっていたら死んでいるから、兄弟が離ればなれになってもナイフを見れば安否が分かる。これだけのディテールは私の記憶と同じで、まさにこのディテールが好きだったのだ。『少年少女世界文学全集』はこの本から翻訳したのだろうと思う。
困ったことに(面白いことにかもしれない)、本文は普通のドイツ語なのに会話は東プロシアの方言で書かれている。ちょっとした言語学的知識でわかることもあるし、本文に書かれたコンテクストから文全体の意味が分かることもあるが、お手上げのこともある。
Wenker調査の地図であのあたりではund(英語のand)がonとなっていたことを、国研での文献調査で覚えていたので、会話文のonはundだろうと見当をつけたりする。つじつまが合うので、それで正しいらしい。
兄弟が同じセットの動物を従えて冒険に出る(戦隊物?)という設定は同じ本に収められているオーストリア南東部の話にもあるらしいのだがこちらは本文まで方言で書かれていて全く歯が立たない。ドイツ人(ドイツ語を母語とする人)だったらおぼろげでも意味が分かるのだろうか。たとえば、鹿児島方言の昔話を方言そのままで書き起こしたら日本人の大半は理解できないだろう。オーストリアからドイツはずっと地続きなので、半分ぐらいのドイツ人は理解できるのかも知れない。
この本の解説には方言がそのまま使われている理由が書いてあった。グリム兄弟が民話の収集をしたのは19世紀はじめだが、そのあとも民話の収集は続き、第一次大戦と第二次大戦の中間期には外国のドイツ人集落へ調査隊が行って収集作業を行った。このときまでに民話が実際に語られる息づかいや口調を大事にすることが意識されるようになった。方言の研究が進んだこともあって、方言を書き言葉に翻訳するのではなくそのまま記録するのが普通になった。実際に語られる話は断片的であったり、論理的につながっていなかったりするが、それも語られた形のまま手を加えない。
第二次大戦後は東ヨーロッパのドイツ人居住地からドイツに逃げてきた(追われてきた)人たちが昔話の新たな供給源になった。そのなかにはベッサラビア(今のモルドバ共和国)やカルパチア、ハンガリーからの人もいた。
昔話は、長い冬の夜に大人が子供に話し聞かせたり、糸つむぎやトウモロコシの皮むきなど単調な作業のときの大人の退屈しのぎだったりするが、それは近代的な生活では失われた場面となる。だから、山奥や森の中の孤立したドイツ人集落で20世紀になっても伝承が続いていたのだ。
この本に収録されている民話の大部分は今のドイツ連邦共和国やオーストリア以外の国からのものだ。それも「Wenkerの調査票(続)」で述べている大戦間の時代に行われた調査の対象以外の地域ばかりだ。ハンガリーやスロバキアの山岳地帯やチェコのモラビア、ルーマニアとセルビアとハンガリーの中間地帯、ウクライナとポーランドの国境周辺(第二次大戦前はポーランドで今はウクライナ)などだが、ベッサラビアも含めて東ヨーロッパのどこにでもドイツ人の居住地があったように見える。
解説によれば、今までに膨大な民話の収集があったようで、この本に収録されているのは全体のほんの一部である。調査地の目録があれば、ドイツ人の居住地がかなりよく分かるのではないか。東ヨーロッパのドイツ人はまるきりの新参者ではなく、何百年も前に入植した人たちが多かった。
グリム兄弟は言語学者でもあったのだが、『ドイツ民話集』は言語学と民話とのつながりを再認識させてくれた。この本を手にとったのは裁断してPDFにするためだったのだが、当分本の形で手元に置くしかなくなった。