最近ままならないことが多くて、気分が乗らない。このサイトでは政治的な意見や徳之島関係以外の個人的なことは書かないことにしているのだが、最近の政府のやり方は本当にひどい。ままならないことのもう一つは我が町のサッカーチームのパフォーマンスで、先日は高校生でもしないようなお粗末な試合をしてしまった。心が痛む。
でも、サッカーの話も政治の話も学問にひきよせて書けば、自分に課したルールを破ることにはならないので、ちょっとそうしてみよう。
私は高校のときにサッカーのクラブに入っていた。私が出なかった試合はみんな負けていた。
とここまで言って相手の反応を見るのを楽しみにしていた。「ウソでしょう」とか「ホントですか」と大抵の人は言う。ホントも何も、言ったことは真実だ。多少脚色はあるけど。
私が「リトバルスキーやマラドーナのように上手かった」と主張していると思われるらしい。だが、次に「私が出た試合はもっと負けていた」と言うと皆さん脱力する。ほんのたまに「出なかった試合はどうだった?」と聞いてくれる人がいる。あなたはスルドイ。
世の中の人は「○は△だった」と聞くと、それをそのまま受け取って「じゃない方はどうだった」かはあまり考えない。実際は正しい結論を出すのに「じゃない方」についても知る必要がある。
最近のニュースを聞いていて気になるのは、コロナウイルスの変異株が何人から見つかったかを報道しても、それが何人の感染者のうちから見つかったかについては全く報道しないことだ。
変異株の置き換わりを知りたいのだったら、新しい変異株が全体の何割なのかが分かればいい。ここでは絶対数はあまり意味がない。変異株と「じゃない方」の株の比率が知りたいときに絶対数を出してもピントがずれている。
もっとびっくりしたのは、「コロナはペストやエボラ出血熱のようには致死率が高くない。だから怖くない。」という論法を当たり前のように繰り広げる人がネット界隈にいたことだ。「感染状況は欧米に比べれば深刻ではないから、これでオリンピックができないと言ったら笑われる」も同じだが、相対的評価と絶対的評価を混同している。
大阪府の最悪の状態のときは医療崩壊だったし、死亡率が他府県と比べて高いのも病床が逼迫していたのと無関係ではないだろう。現在の沖縄県の状態は日本国内で最悪なのではないか。怖い病気だと思うし、オリンピックができる状態でもないと思う。
管首相は去年GOTOトラベルをやめないのかと聞かれて「感染をひろげているエビデンスがない」と頑迷にGOTOの中止を拒否した。真実は感染状況に対するGOTOの影響を政府がモニターしていなかったので、エビデンスを探そうとしなかったというのが正しい。「それでは感染を拡げていないエビデンスはあるのですか」と誰かが聞くべきだった。「じゃない方」を考えるのは大事だ。
首相が自分の肝いりの政策にこだわったために年末に感染爆発が起きて死者も出た。GOTOを早く止めていれば、死者が千人単位で減ったはずだ。誰も言わないが、防げたはずの死に対して首相は責任がある。でも、そのことに対する後悔も自責の念も首相から感じられない。
今回も分科会の尾身会長が「今の状況で五輪は考えられない」と言っているのを首相は無視しようとしている。
今のように人の命がかかっていて、1ヶ月以上の状況が予測できない場合、いろいろなケースを考えてそのなかで最悪に近い状況に合わせて政策を立てるべきではないか。今までの首相のやり方を見ているとつねに楽観的な予測を信じて状況を悪化させている。五輪で感染状況がひどくならないと信じるのはギャンブルと同じだ。人命を賭けてギャンブルをしないでほしい。これほど科学的思考と縁のない人が日本のトップにいるのは対外的な評判にもかかわるし、国民にとっても不幸なことだと思う。
政治家が科学者の意見を大事にしないのは根が深い。首相の場合は本人が受けていたはずの科学教育をどれだけ自分のものにしているか疑問があるけれども、それ以上に日本の政治や行政が科学に基づいていない点が大きい。
ある政策が実行されたあとで、その政策についての事後評価は行われない。そうして同じ失敗が繰り返される。いわゆるPDCAサイクルがないのだ。まさに惨状だが、それでも国がつぶれなかったのはひとえに経済が健全だったことと、日本にとって平和な時代が続いたからだった。
政策が科学的知見にもとづいて行われることもない。全国学力テストを行うようになったのも「空気」で決まったことだった。かつて、あまりにも弊害が大きかったために全国一斉のテストが廃止されたという経緯があったにもかかわらずである。国立教育研究所の研究は全く参考にされなかった。
国語研究所のNさんが40年前に言っていた。「国語審議会が当用漢字の枠を拡げるときに我々の研究は使われていない」。
役所が政策を決定する前に審議会とか有識者委員会が構成されるが、そのメンバーを選ぶのは当該の役所であり、当然のように役所が望む結論に賛同するような人がメンバーとなる。審議会は政策の権威付けのためのものである。
首相にとって学者や専門家は利用するためだけに存在する。自分の意見と違う人は排除して、異論は無視する。分科会に「8割おじさん」の西浦さんが選ばれなかったのはそのためだし、ノーベル賞の山中さんが最初は入っていたのは権威付けのためだった。山中さんは早い時期にそれに気がついて離脱した。
「オリンピックをこの時期にやるのは普通はない」と尾身会長が発言したのに対し、「五輪の開催をうんぬんするのは尾身さんの所管にない」と自民党の幹部が反発したとのことだが、本来は首相と都知事は真っ先に分科会に諮問すべきなのである。それが分科会に何も相談がないから専門家の義務として尾身さんが発言したのだ。首相は国民の安全が第一と言ったが、本当に国民の安全を考えているのか疑わしい。尾身さんは国民の大部分が考えていることを専門家の言葉で代弁してくれたのだと思っている。
世の中のことを学問的にまとめようと思ったが、感情が入ってしまった。自分の科学的精神の欠乏によるものだろうか、残念だ。
言いたいことは言ったので、当分俗世間のことは書かないことにする。