言語学バーリ・トゥード

かつて学会の懇親会で出版社の人に「どんなご専門ですか」と聞かれて「バーリ・トゥードというやつで何でもやります」と答えたら「???」という顔をされたことがある。
バーリ・トゥードとは「ルールや反則を最小限にした格闘技の1ジャンル」のことだが、これをタイトルの一部にした言語学エッセイ本だったら買わないわけにいかない。著者はちょっと前から注目していた川添愛さん。言語学上の問題を主題にした小説を書く異能の人である。

本書は言語学のトピックをプロレスやテレビのバラエティー番組を引き合いに出して易しく面白く取り上げている。と書けばかつて千野栄一さんが書いていた言語学エッセイのようなものを思い浮かべる人もいるかもしれない。
それは違う。千野先生(非常勤で私の大学に出講されていて幸運にも聴講することができた)は根っからの大学の先生でどんなに脱線しても最後は言語学に着地するのだが、こちらは時としてオタク世界に漂流したまま戻ってこなかったりする。本人が「言語学とは名ばかりで、実質的には単に私が普段考えているバカ話を披露する場である」と言っているくらいだが、彼女の繰り出すオタクネタを思い切り楽しみながら言語学的な問題について考えるというのがこの本の正しい読み方なのではないか。本の帯に「抱腹絶倒必至」とあるのは誇大広告としても、時々くすりと笑いたくなることは間違いない。
と言っても「人類補完計画」がどんなアニメに出てきた言葉か知らないような人にはこの本の楽しさは分からないのではないか。その意味では読者を選ぶ本でもある。
分かったようなことを書いたが、実のところ私は著者とオタク世界を半分も共有していない。この本の半分はプロレスネタだが、私の知っているプロレスと時代が違うし、テレビもそうで「オレたちひょうきん族」は見ていない。「シャボン玉ホリデー」だったら熱く語れる自信はあるが。ゲームは無縁だし、マンガもこの本に出てくるのは題名だけ知っている程度だ。
70過ぎたじいさんがオタクで張り合ってもしかたがない。しかし私にとって未知の話が頻出するのに、全体を通して楽しく読めたのは著者の筆力によるものだろう。
チャンピオンベルトらしきものを肩にかけたチョムスキーの両側に将棋の木村一基(かずき)九段とシルビア・クリステル演じるエマニエル夫人が並び、その上下にプロレスラーたちとダチョウ倶楽部の上島竜兵を配したポップなイラストの表紙カバーはどう見ても言語学の本のものではない。
そのうえに我々を混乱(困惑?)させるのが、この本が東京大学出版会70周年記念出版だということだ。あのお堅い本ばかり出していると思われているところがこんな本を出していいのかと抗議の電話が殺到しそうなものだが、それはなかったようだ。

蛇足だが、本の帯に「著者近影」としてイタチらしき動物のイラストがあるのを発見した。これは著者の手による『働きたくないイタチと言葉がわかるロボット』(朝日出版)に由来するものと推測する。

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カテゴリー: 雑文

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