私が徳之島で4ヶ月を過ごした目的は学問のためだった。
もっと言うと日本で最初の方言コーパスを作るためだった。あとから考えると、4ヶ月という時間でコーパスを作るのは無謀と言ってもいいことだったがほかに方法はなかった。方言コーパスを作った人は誰もいない。私が作ろうとしているのは徳之島方言のコーパスでお手本にすべきものは全くなかった。したがって、どういう手順でそれを作るべきか、作業量はどれくらいか最初から分かっていたのではない。 実は徳之島に行く前、何年かかけて途中までは作っていた。もし、同じペースで仕事をしたらあとどれだけかかるのか分からない。今までと同じ生活をしていたら、ペースは変わらないだろう。ここはコーパス作成しかない状況に自分を追い込むしかないという気持ちだった。結果は4ヶ月でともかくも目鼻がつくところまでは出来たので大成功と言ってもいいだろう。
もちろん、作業の途中で聞きたいことが出来たら歩いて行けるところに岡村先生という方言の話者であり、共同研究者でもある人がいるのも大事なことで、いくらそれだけに集中できるからと言って信州の山の中にこもるつもりはなかった。
島にいた4ヶ月は毎日必ずコーパス作成のための作業をしていた。本土に帰ったらこれだけに向き合う生活ができないことが分かっていたからだ。もともと雑念と煩悩のかたまりのような人間なので、気を散らす誘惑のない島の生活は理想的だった。
しかし、9月の半ばにはキプロスの学会に出席することにしていたから、それまでには一応のめどをつけなければならない。本当はこれだけ時間がかかる仕事の場合、工程表を作って仕事の区切りごとに締め切りを決めてスケジュール管理をするものだと思うが、仕事を始めるまえに細かいところまで見えていたわけではない。行き当たりばったりである。実際に仕事をしてみると、10本以上のプログラムをかけ、間に人間による手作業をはさんでようやく完結するというものだった。でも、不思議なことに一つの工程が終わったときには必ず次にするべきことが分かって、あとで考えても一度も回り道はしていないのだった。
確かに最初から全体の具体的な細部が見えていないのはまずかった。大きな失敗の原因になりかねない。でも一つ言い訳を言わせてもらえば、全体の流れは漠然とだが見えていた。だから迷走はしなかったのだと思う。
プログラムはたくさん作ったが、その一つ一つはそんなに長大なものではない。だからプログラミングにはあまり時間をかけていない。要所要所で必要なデータの加工は単調な労働で、これにかけた時間が大きかった。ときどきしなければならないプログラミングは気分転換にちょうどよかった。
徳之島に行くまえに内心焦っていたのは、琉球方言を研究している他のグループが私と同じように方言コーパスを作ろうとしているのではないかと心配していたからだ。方言コーパスは方言を研究する上での革新的な方法に違いない。そうだとすれば、コーパスを最初に作ることに大きな意味がある。急がなければ先を越されてしまう。
この緊張感は徳之島でも持続していた。一等賞を取るために努力するという人生初めてのことをよりにもよって(悪い意味ではありません)徳之島でしかも定年を過ぎてからするとは、予想外のことだった。私の人生哲学は「トップで合格してもびりけつで合格しても合格は同じ」、今までずっとそれでやってきた。でも、「もしかしたら負けるかも」というちりちりした緊張感は悪いものではなかった。
そんな毎日のなかでときどき思い出す詩の一節があった。ドイツのマティアス・クラウディウスの「夕べの歌」だ。
我らは虚ろな糸を紡ぎ、あまたの業を学び
しかして目指す行く手を遠く外れてしまう
(沢木試訳)
自分のしていることは本当に意味のあることなのか、無価値ではないのだろうか。単調な作業に明け暮れているとそう思う瞬間もある。 徳之島では方言コーパスにはある程度めどをつけ、2018年には一応の完成を見たのだが、そのときまでに分かったのは、琉球方言を研究している人のなかでは私以外に方言コーパスを作ろうと考えた人はいないことだった。したがって、私がしていると思った競争は単なる妄想であり、一人相撲だった。そして最近になって分かったのは、私より少なくとも6年前に関西学院大学のヘファーナンさんが関西方言のコーパスを作っていたことだった。
こんな早くにヘファーナンさんの仕事があったことに誰も気づかなかったのは方言コーパスに対する方言研究の業界の関心の薄さの表れだ。それは琉球方言のコーパスを作ろうとしたのが私だけだったことともつながっている。
ヘファーナンさんの方法は日本語のコーパスを作るためのアプリケーションを関西方言に応用するというもので、私のやり方とはかなり違う。私の方法は琉球方言一般に使える(このことは証明したいと思っている)のだが、ヘファーナンさんのやり方は本土方言と語彙も文法(動詞の活用)も大いに異なる琉球方言に使うことはできない。
それにしても方言コーパスで一番乗りを果たしたと思ったのは思い違いで、とんだお笑いぐさだ。でも、思い込みがなければここまで頑張って一定のところまで来ることはできなかった。徳之島生活が私の人生の貴重な宝物であることは変わりがない。
2016年にも、もう一度徳之島プチ移住をした。このときは動詞の活用をコンピュータープログラムとして表現する方法を考えるためだった。ひと月足らずのあいだ、本当に毎日毎日ただ考えるだけの日々だった。これも私にとっては新たな経験だった。プログラムの構想は練っていたが、肝心のプログラムは1行も書いていない。ひたすら知的なことだけ考えていた。退屈なことは全くなかった。家に帰ればそんな生活はできないと分かっていたので何もない時間を楽しんでいた。
でも、この時間がなければ、プログラムを作ることはできなかった。有能なプログラマーだったらこんなむだなことはしなかっただろうから、単に私がプログラマーとして無能だったというだけの話かもしれない。