奄美沖縄の先史時代と言語

たまたま、最近本屋で見かけて思わず買ってしまったのが『奄美・沖縄諸島先史学の最前線』(南方新社)なのだが、それによれば奄美沖縄は狩猟採集文化が最近(1000年前)まで何千年も続いた世界的にも珍しい群島なのだそうだ。普通は狩猟採集文化では住民が絶滅してしまうくらい島が小さいらしい。
どうして絶滅してしまうのか、その理由については説明されていないが、推測するに理由は二つある。一つは飢餓や疫病あるいは津波などの天災のために人口が激減したときに、もともとの人口がある程度以上あれば回復可能なレベルの人口で踏みとどまれるが、人口が少なければそのまま減少が続いて絶滅してしまう。もう一つは人口が少ないために近親婚が度重なって遺伝的に特定の伝染病に対して抵抗力がない人が多くなり、疫病などで絶滅しやすくなる。
 奄美沖縄の遺跡の人骨のDNAから分かるのは本土からの人口の流入があったらしいことである。ただし、それが確実に言えるのは弥生時代から平安時代にかけてのことになる。狩猟採集生活の継続が可能だったのは島が連続して存在するために一つ一つの島は小さくとも全体で沖縄島の倍ぐらいの大きな島と同等だったことと、本土からDNAが入ることによって近親婚が少なくできたからではないだろうか。飢餓や疫病など何らかの理由で人口が激減したときも本土からの来訪者があったことは人口回復に大いに寄与したはずである。本土から来た人たちは農耕を知っていたはずだが、奄美沖縄では農耕をあきらめたことになる。
 弥生時代以降はモノの交流もあった。沖縄からは貝輪(貝を削って作る腕輪)の材料となる貝殻が移出され、本土からは土器が入ってきた。ヒトの流入も含め、奄美沖縄は本土から隔絶した世界だったわけではない。
人の交流や移動は弥生時代からずっと続いていたわけなので、「2000年前に本土方言と琉球方言が分裂した」と言われても、「ではそのきっかけとなるイベントはあったのか」と考えてしまう。分裂したあとも本土と奄美沖縄との交流は変わらず続いていたのだ。不思議な話だ。
2000年前は本土方言と奄美沖縄方言はほとんど同じで、しかも広大な琉球弧で同質な言語が使われていた。そして2000年前に本土と奄美沖縄の連絡が絶たれて二つの地域は言語上別々の道を歩むことになった。
「方言のきれいな分裂」というのは以上のことを意味するが、そんなことが実際に起きたとは考えられない。
また、奄美・沖縄で農耕が始まったのが今から1000年ぐらい前だったことが考古学的調査で分かっている。柳田国男は南西諸島から日本本土に稲作が伝播したと考えたが、どうも逆だったらしい。1000年前に農耕が始まったのはどうしてだったのだろう。きっかけとして考えられるものは何だったのか。日本本土では平安時代にあたるが、このときに大挙して奄美沖縄に渡ったという記録はない。中央の支配が十分に及ばない九州の辺境から数百人程度の人が奄美沖縄に渡っても記録に残らないだろうけれど、わざわざ大挙して奄美沖縄に行く理由も分からない。鉄製の農具でないと耕せない奄美沖縄の土が農耕を阻んでいたと説明されるが、稲作でなく粟だったら大規模な土木工事をしなくても可能だったはずで、もっと早く農耕が始まってもよかったのではないかと思う。
農耕が始まると人口が一気に増えて社会が階層化され、群雄割拠のグスク時代に続いていく。
社会が急速に変化したこの時代が言語の分裂を促したと考えたいのだが、1000年あれば、奄美方言と沖縄方言、宮古方言、八重山方言が変化をとげて現在のように非常に相異なる方言になることができるだろうか。
もう一つ言葉の変化と文化・社会の関係を考えるうえで興味深いことがある。先島地方(宮古八重山)は農耕が始まるまで奄美・沖縄のなかでは文化を異にしていた。むしろ台湾のほうにつながるような文化だったらしい。ところが、それでも北からの人の移動はあったらしい。文化は違うが奄美沖縄のなかで完全に孤立していたのではなかった。
本格的に調べたのではないが、本土方言との音韻対応の例外が少ないのは首里と宮古で、奄美も八重山も例外が多いような気がする。これが何を意味するのかときどき考えるのだが、よくわからない。

今まで述べたことを整理するとこうなる。
音韻対応が存在することは間違いない。だが、それが生まれるに至った歴史的背景・プロセスが分からない。文化と言語も平行して存在しているようでそうでないところもある。方言の「きれいな分裂」は音韻対応の説明としてはそう考えるしかないのだが、実際にはどうだったのだろう。

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