ウクライナ

とうとうロシアはウクライナと戦争を始めた。どんなに限定した戦争であっても戦争は必ず人命の犠牲を伴う。開戦を命じたプーチンは誰かが死ぬことなど気にしないのだろう。兵隊も一般市民も気の毒なことだ。
「戦争は外交の一手段」とクラウゼヴィッツが言ったと記憶するのだが、損得を考えたらこの戦争はロシアにもロシア以外の国にも全く得にならない。むしろ、戦争寸前の状態で脅しをかけ続けたロシアが得をしていたはずなのにどうしてこんな無謀なことをするのだろうか。どこで矛を収めるつもりなのだろうか。まさか戦いを際限なく続けるつもりではないだろう。
ひと月前にロシアのことをよく知っている専門家(複数)がロシア語を話す人が大多数を占めるウクライナ東部はロシアに親和的なのだと解説していたが、プーチンが長年にわたって脅しをかけた結果、自分たちがウクライナ人だという自覚がロシア語話者にも強くなったらしい。
言語学者はネイティブな言語と民族意識がつながっていると信じているが必ずしもそうではないらしいことがユーゴ内戦のときにわかった。兄弟が違う国に分かれて戦うことがあったが、それはどうしてなのかということだ。
同じように、ロシア語が母語であるかどうかに関係なくロシアからの外圧を受けてウクライナの人たちの民族意識が強まったらしい。ウクライナ語はロシア語にとても近いので、ウクライナ人がロシア語を話すのは普通のことらしい。専門的な知識を得るための本はロシア語で書かれているもののほうがずっと多いはずだし、文学書もそうだろう。今でもロシア語を知っていたほうがずっと便利なのだろうと思う。
愛知万博のときにウクライナ館に行ったら、キリル文字で「ヤーリュブリューウクライヌー(私はウクライナが好きだ)」と書いてあった。館のテーマのような扱いだったのだが、ロシア語と全く同じだったのでびっくりした。ウクライナ語は場合によってはそれくらいロシア語に近い。
プーチンがロシアの一部だと思うのは無理もないが、ウクライナの人たちが「自分たちはロシアと違う」と思うのだったらそれを尊重すべきだし、武力で言うことを聞かせようしたらそれに対して反発が強くなるだけだ。

ところで、松本の町は全くウクライナと無縁なわけではない。中心部にほど近い路地にウクライナの民族衣装を売る店がある。もう4年以上前に見つけたのだが、今日もその店の前に行ってまだ続いていることを確認した。ウクライナの学者と共同研究をしている人も大学にいる。数年前にはウクライナの音楽院の学生が大学のオーケストラとラフマニノフのピアノ協奏曲を演奏した。
私自身はウクライナ人の知り合いはいないが、ウクライナに同情するほかない。

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カテゴリー: 雑文

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