一ヶ月前の文藝春秋にノーベル賞の真鍋淑郎さんの「ノーベル賞は『論争』から」という文章が載っていた。この中で最初に述べられていたのは「ディスアグリーメント、つまり意見の違いや反対から学ぼう」だった。
日本ではまったく違った研究結果が発表されても、面と向かって相手に反対することはあまりない。ところがアメリカでは堂々と反対意見を口にする、とある。どうしてそれが大事なのかも真鍋さんは書いているが、私なりの解釈ではこれは論争の勧めであり、反対意見をしっかり受け止めなさいということでもある。
私自身の経験でも、反対意見がとても役に立ったことがある。それに対する回答を考えるなかで自分の考えを明確にしたり、考えをさらに進めることができたりした。反対のための反対ではなく、それなりの思考の裏付けがある反対であればそれに対して誠実に対応することが自分にとってもメリットになるのだ。反対意見を恐れてはいけないということを学んだ。手遅れなくらい遅まきではあったけれど。
現今の私の業界(方言研究)ではあまり論争が活発ではない。論争になりそうなことはある。誰かが新奇な説をあるいは方法を提示することはよくあるのだが、それに対して反対意見が出てそれが論争に発展するのは見たことがない。
私は実際に直接見聞したことはなく、論文などから知るだけなのだが、今から60年以上前であればかなり活発に論争が行われていたようなのだ。論争がないと仮説が学界全体で定説として認知される過程が明示されない。「なんとなく」定説化するというのはかなり気持ち悪いことだ。
私自身が論争を積極的にはしていないので、まずは隗より始めよなのだが、論争を最初に仕掛けるのは勇気がいる。
論争から連想するのは徳川宗賢さんの質問だ。
徳川さんが亡くなったのは1999年だったので若い人は知らないだろうが、方言研究会の研究発表会での徳川さんの質問はいつも面白かった。研究発表よりもそれに対して徳川さんがどんな質問をするかを楽しみにしていた人もいたのではないだろうか。
徳川さんはユーモアというオブラートにくるんだ質問をした。発表の本質をとらえた、その論点が成立しなければ発表の意味がなくなるような点についての質問だった。発表者よりもよく考えているのではないかと思わせることもしばしばだったし、徳川さんの質問を聞いてはじめて発表者の言いたいことがわかったという経験もした。発表者も考えていない先を徳川さんが知っているのではないかと思ったこともある。
そんな徳川さんを見ているうちに、質問をするまでにどんな頭の働かせ方をしているのかがおぼろげに見えてきた。
書いてしまうと当たり前のことなのだが、まず論理が間違っていないか論文の論理を追って確認する。つぎに使われたデータは確かかをチェックする。どちらも問題がなければ同じデータから別の結論が出せないか、全く違う論理展開ができないか考える。もし時間があれば論文の論理展開をさらに進めるとどんな応用があるかを考える。もちろん、そもそも論文が問題にしていることがそれだけの価値があるかどうか検討の材料ではある。
基本には論文や発表に対するリスペクトがあり、丁寧に論理を追うことが出発点になる。徳川さんは研究発表会に臨むにあたり、発表原稿集を事前に読み込んでいたものと見える。
論争とは違うのだが、徳川さんの質問は発表者にとっても聴衆にとってもとても有意義なものだった。徳川さんが早くに世を去ったのは私たちの業界にとって大きな損失だった。