2020年ワールドカップで日本が一位でグループリーグを抜けた。すごいことをやってしまった。高校で下町のリトバルスキーと呼ばれた私(ウソです。第一ピエールはもっと後の人)としては、何か一言言わずにはおれない。
私の住んでいる街には松本山雅というJリーグのチームがある。2016年、J2だったこのチームには今回の代表チームのメンバーが二人在籍していた。一人はキーパーのダニエル・シュミット、もう一人が今回サッカーにうとい人も名前を知ったであろう前田大然だ。
大然(前田という名前のサッカー選手はほかにもいるが、大然はひとりなのでこう呼ばせていただく)は山雅でプロ生活をスタートした。つまり、山雅のサポーターは大然が高校を卒業したばかりの駆け出しのときから彼を見ていて、一流の選手に成長する過程も目撃しているし、山雅から他チームに移籍したあともテレビ中継やインターネットで彼をずっと追いかけているのだ。大出世をした親戚の子供を見守る気持ちに似ているかもしれない。
山雅のホームスタジアムで大然が球を持つと、スタンド中から「大然」と歓声がわき上がった。大然が球を持ったら何かが起こるだろう。それを信じてのことだ。あんな選手はそれまで彼しかいなかった。山雅のサポーターは今でも大然が自分のチームの選手であるかのように感じている。
だから、長野県のNHKのローカルニュースでもワールドカップの報道をして、街の人から「大然が活躍してうれしい」という声を引き出したりする。
大然がJ2の山雅に入団したことについてはちょっとしたいきさつがある。大然は大阪から山梨県の高校にサッカー留学したが、高校のクラブが県代表にならなかったためにスカウトの目にとまらずJリーグのクラブから声をかけてもらえなかった。山雅の練習に参加した大然を見た当時の反町康治監督が「足が特別速いのも強みだ」と採用を決断したことで大然がプロ選手になることができた。山雅が見つけなければ、大然はプロになれなかったし、代表として活躍することもなかったのだ。反町の眼力は大したものだった。
入団1年目の記録を見ると、大然は開幕戦の試合終了間際で出場を果たしている。リーグ戦全42試合を通してみると9試合54分の出場となっているが、これは高卒1年目の選手としては山雅では異例である。反町監督は大然に可能性を認めたから成長の機会を与えたのだろう。ただし、得点はゼロだった。
次の年に水戸にレンタル移籍すると、中心選手として大活躍し、翌18年に戻ってきてリーグ戦6ゴールをあげた。このときのいくつかのゴールは何本か脳裏に焼き付いている。
19年シーズンの途中からポルトガルのマリティモでプレーすることになり、そのあとは横浜Fマリノス、スコットランドのセルティックと移籍を重ねたが、最初にレンタルで行った水戸を始め、どこに行っても背番号は山雅にいたときと同じ38である。山雅での日々を忘れていないのだと思って、この背番号を見るたびに胸が熱くなるのだ。