岡村隆博さん 1

岡村隆博さんが永眠された。2024年4月3日、享年88。徳之島方言の話者であり、多くの研究者のインフォーマントとして活躍された。琉球方言研究にとって大きな損失である。

岡村さん(私は先生と呼びならわしていたが、ここでは岡村さんと呼ばせていただく)は私の貴重なインフォーマントであり、人生の大事な先輩でもあった。本当のところその関係をどう言っていいのか分からない。なにしろ50年近いおつきあいなのだ。
長くなるが岡村さんのことを記すことにする。岡村さんを知らない人にもどんな人だったか知ってほしいからである。

岡村さんは徳之島方言のインフォーマントとして有名だった。その始まりは1958年に日大文学部通信課程の学生だった岡村さんが卒論のテーマを探していたときにさかのぼる。岡村さんは自分の方言を題材にすることを考え、言語学概論を講じていた柴田武(当時は国立国語研究所研究室長で日大は非常勤)を思いだし卒論の指導を仰いだ。岡村さんは新宿御苑の近くのガソリンスタンドに住み込みで働いていたが、勤務が終わると当時北区西が丘にあった国立国語研究所に行って柴田の指導を受けた。
ガソリンスタンドから国語研究所へは山手線で巣鴨に行き、そこから都電で板橋本町に出るという経路だったと思われるが、小一時間はかかる。柴田によると岡村さんは研究室に着くなり「失礼します」と言って持ってきた軽食(当時のことなのでコッペパンか)を食べるのが常だったという。
それから「指導」が始まる。それは方言調査に近いものだった。このときから岡村さんは理想のインフォーマントだったに違いない。言語学の基礎がすでにあって音声学的な耳もすばらしい。岡村さんによれば「自分の方言の発音がこういうふうに表せるんだと分かるのが喜びだった」とのことだった。私の想像では柴田が「kの喉頭化音で始まる語例がもっと欲しい」と言うと岡村さんが「それだったら○○と××があります」というようなやりとりがあっただろうと思う。
岡村さんは無事卒論を提出して卒業し、鹿児島県の中学校の国語教師としてのキャリアを始めた。柴田は岡村さんの方言を題材にして「徳之島方言の音韻」(国語学41 1960)を発表する。琉球方言のなかの一方言を精密に音韻論的に記述したものとしてパイオニア的な論文であり、常に参照される古典的な作品である。岡村さんの名前はここで学会に知られることになる。
岡村さんは天性の語感があり、もともと自分の方言を客観的に見ることは得意だったのだろう。生まれと育ちは徳之島の浅間集落だが、隣の集落とはアクセントや音韻体系が少し異なっていてそのことを意識せずにはいられない。高校は徳之島を出て奄美大島の名瀬にある大島高校に進んでいる。大島高校は奄美群島全域から生徒が集まっていたので徳之島以上に方言の違いが大きい。ここで今度は奄美群島内部の方言の違いに目が向くことになる。そして東京に出て本格的に本土の言葉と向き合うのである。テレビが普及していない時代は東京に出ることが大きな共通語体験だった。
結局、何度も自分の方言を相対化して客観的に見る経験をしたことになる。しかも柴田との出会いによって自分の方言の音声を科学的に記述するためのことばを我が物にした。岡村さんが理想的なインフォーマントとなるための条件はそろっていた。
私が岡村さんに初めて会ったのは1975年東大文学部の言語学教室で徳之島の言語地理学調査を行ったときのことだった。下準備のために東大教授の柴田のお供で徳之島を訪れたのだが、小柄で総白髪の男性がにこにこしてぴょんぴょんと跳ねるようにして柴田に近づいたその光景が目に浮かぶ。柴田先生との再会がうれしかったのが分かった。岡村さんは当時38歳だったが、白髪頭の外見からは想像がつかない身の軽さだった。
岡村さんは奄美大島で先生をしていたのだが、下準備のときも本調査のときも島に帰って調査が円滑に行われるように手配をしてくださった。75年と76年の調査の結果は『奄美徳之島のことば 分布から歴史へ』(秋山書店 1977)として結実した。このような出版物の常として世の中に大部数出るということはなく、半分忘れられている可能性はあるが、琉球地域の方言地図集であること、地図に解釈が付けられていること、その両面で希少なものである。方言が消滅しつつある現在、この書の地図に現れたなかで特に珍しい語形は失われているだろうし、項目によってはほとんど共通語化している可能性もある。その意味でも貴重な記録である。
この調査が残したもう一つの財産は人で、調査のメンバーの多くは奄美沖縄に対する興味を持ち続け、そのなかで研究の道に進んだ者は単なる興味関心だけでなく研究の対象の一つとすることになった。上野善道さん、中島由美さん、福嶋秩子さんそして私は言葉を対象とし、中俣均さんは人文地理学を対象とした。メンバー全員が岡村さんの人柄のファンになった。陽気で冗談好き、人に対して親切で頭の回転が速い。こんな人を好きにならないわけがない。

(「岡村隆博さん 2」に続く)

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