岡村隆博さん 2

1977年には1年間の内地留学で東大文学部の授業を聴講した。岡村さんにはもともと学問に対する憧れがあったのだが、内地留学はその憧れを更に募らせることになった。
おそらく東大調査以後のことと思われるが、岡村さんは上記の人たちだけでなく内外の多くの研究者に分け隔てなくインフォーマントとして接し惜しみなく方言の知識を分け与えた。私が知っているだけでも松本泰丈さん、松森晶子さん、ロレンス・ウェインさん木部暢子さんなど錚々たる顔ぶれである。インフォーマントとしての学問に対する貢献は大きい。
ずっと後のことになるが、岡村さんが書斎兼書庫にしていた部屋に何度か案内していただいた。広い部屋を本が埋め尽くしていた。方言や島関係、教育や教職に関する本がほとんどだったと思う。徳之島には岡村さんの要求に応えられるような大きな本屋はない。岡村さんが鹿児島の垂水や奄美大島の名瀬の学校で先生をしているときや東京時代に買った本もあっただろうが、離島に赴任したことも多かった。あれだけの本を集めるのに苦労もあったのではないか。岡村さんの書斎を見たときに彼の孤独を感じた。島では同じレベルで方言の話ができる人はなかなかいない。岡村さんはロビンソンクルーソーのようなものではないかと思えた。
私個人のことで言えば、1998年ごろに徳之島方言の研究を再開し、前後して中島さん福嶋さんと共同研究することになった。調査のときに私が『日本語二千文』を使っているのを見て、岡村さんは全2000文を見ることを希望した。OCRで読み取りをしてPCで打ち出したものを差し上げたところ、もののひと月ぐらいで「完成した」と連絡があり、フロッピーが送られてきた。ワープロ専用機(知らない人のために当ブログで説明する予定)のオアシスで作ったもので、変換ソフトでPCに取り込んでみると徳之島向けに2000文の設定をアレンジした標準語文と音韻表記で書かれた方言文のペアだった。
あとで伺った話では、机にオアシスを2台並べて片方は標準語文、もう片方はローマ字による音韻表記の方言文を打ち込んだとのこと。2台使ったのはカナ出力とローマ字出力を切り替えなくて済むようにするためだったらしい。
岡村さんはワープロの達人だったのでオアシスで入力するのはお手の物だった。それにしてもひと月で2000文の翻訳を完成させるのは大変なことだ。それは英語のペーパーバックを1冊翻訳するぐらいの労力だと思う。なかなかできることではない。
岡村さんの「徳之島2000文」は貴重な方言データとなった。本ブログで『日本語二千文』について述べていることがそのままあてはまるのだが、いろいろな文のタイプを網羅し、生活の様々な場面を表現することによってこの大きさのデータとしては例外的な語彙の豊富さがある。それはいわゆる談話資料と比較してみても分かることである。
私は「徳之島2000文」を材料にKWICを作り、コーパスをなかば完成させた。共同研究者とともに報告書を3冊作ったがそのうちの『徳之島方言二千文辞典改訂版』ではDVDを付属させた。その内容については本ブログの「『徳之島方言二千文辞典改訂版』付属DVD」というエントリーで述べたのだが、付言すれば岡村さんの元気だったときの声もお姿もこのDVDで見たり聞いたりすることができる。
岡村さんは病気が見つかって死期を悟ったあと、入院せずに自宅で執筆生活を送ることを選んだ。方言関係、自分史、教育論など大量の原稿が残っている。

岡村さんが世を去ってから3週間になるが、呆然自失の思いは続いている。

 

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