今の大学生の年代の人たちは見たことも聞いたこともない可能性があるのだが、ワープロ専用機というものがあった。簡単に言えば、1台で文書作成と印刷が行える機械である。プリンターとキーボードと白黒の液晶画面、フロッピードライブが一体化していた。大きさは画面の大きさにもよるが大型のラップトップぐらい。液晶画面は最初は5行以下の表示しかできなかったが、私が1988年ごろに買ったNECの「文豪」は20行表示できた。
日本語ワープロが革命的だったのはキーボードから手軽に日本語入力できる機械がそれまで全く存在しなかったからだ。ベストセラーになった『知的生産の技術』で梅竿忠夫さんは「日本には考える速度で字を書けるタイプライターのようなものが存在しない」と言い、カナしか打てないカナタイプを使うことを推奨していた。しかしだからと言ってみんながカナタイプに流れるということはなかった。カナばかりの文は読みにくいし、漢字由来の同音異義語が多い日本語では誤解が生じやすい。
漢字交じりの日本語をまずまずの速度で入力し、印刷活字に近い品質の字が出せる日本語ワープロは世の中が切望し、しかしそんなものはあり得ないとあきらめていたものだった。だから、日本語ワープロが手頃な値段で出たら爆発的に売れることになったのだ。
日本で最初にワープロ専用機として世に出たのは東芝のJW-10だった。1978年発売で価格は630万円。家電製品としての位置づけではなかった。むしろ大型計算機の周辺機器のようなものとして売りだしたのではないだろうか。のちのワープロ専用機のように一体型ではなく、CRT(いわゆるブラウン管)ディスプレー、キーボード、プリンター、ハードディスクとフロッピードライブ内蔵の本体が一体となった大きな機械だった。
1980年までには各社が競争で製品を出し、1985年にはカシオが6万円を切る製品を発表するようになってワープロがブームになる。7年で価格が100分の1になるというとんでもないことが起きたのだが、液晶、メモリー、CPU,フロッピードライブ、プリンターのすべてでこの間大幅なコストダウンがあったためにそれが可能になった。もちろん、JW-10に比べれば普及型のワープロはディスプレー、プリンターでは妥協があるし、ハードディスクは最初からない。フロッピーディスクがついた実用に耐えるワープロは10万円はした。家庭での使用用途は年賀状印刷が多かった。冬のボーナスの時期に新製品が出たり、広告が目立ったりしたのはそのせいだろう。
ワープロは会社や役所でも使われ、OA(オフィスオートメーション)三種の神器と言われるようになる。ほかの二つはFAXとコピー機である。この三種のない時代の会社や役所の事務は本当に原始的としか言いようがない。その時代のホワイトカラーが欧米の3分の1の生産性と言われたのももっともなことだ。
ワープロ専用機の全盛時代は1990年前後だったのではないか。1980年代にパソコンで16ビットCPUが主流になると一太郎などのワープロソフトが現れ、一定の支持を集めたが、このころはパソコンとディスプレー、プリンターとソフトのセットはワープロ専用機に比べれば高価でその牙城を崩すまでには至らなかった。
1990年代になるとウィンドウズが出現し、パソコンは文書作成だけでなくインターネットや会計計算、ゲーム、音楽や動画の再生などいろいろなことができる機械として世の中に受け入れられ、会社や役所の事務には欠かせないものとなった。単機能のワープロ専用機が対抗できるのは値段だけだった。
1999年には出荷価格でパソコンがワープロ専用機を上回った。2000年代に入るとワープロ専用機は世の中から姿を消していった。ノートブックの安いパソコンとプリンターの組み合わせで10万円を切るようになったらもう勝負にならない。
ワープロ専用機の累計出荷台数は3000万台を超えている。日本国内でしか需要がない珍しい電化製品としては驚異的な台数である。一時期の家電業界を支えたとも言える。
ワープロ専用機はキーの側面に操作の内容が印字されていて、たとえば文書を保存したいときは「保存」と書いてあるキーを押せばいいようになっていた。マニュアルを見なくてもキーボードを見れば大体のことができてしまう。これは単機能機ならではのことで、パソコンではこうはいかない。パソコンは何でもできるがゆえに操作に迷いを生じてしまう。
60歳以上の人でワープロ専用機なら簡単に使えるのにパソコンを覚えるのに苦労する人を何人も見てきた。プリンターのインクリボンやフロッピーディスクが生産中止になりワープロ専用機が使いづらくなって初めてパソコンに移行しようとするのだが、それがうまくいかない。スマホが苦手でガラケーが手放せないのと軌を一にしている。