板書

先日の新聞に高校生の投書が載っていた。その高校生の高校では科目によってノートの点検があり、採点もされる。先生の板書をそのまま写したノートは高い得点が与えられるが、その高校生は自分が知っていることは記録しないので先生の板書そのままではない。そうするとノート筆記の点数は低いのだが、それはおかしいという主張だった。ノート筆記で学生の理解度が計れることはないので、それを採点することにどんな意味があるか私も分からない。学生を不条理に苦しめるだけだと思う。
諏訪の在野の科学者(天文学者、地理学者、気象学者etc)三澤勝衛は学生(旧制諏訪中学生)に「授業のときはノートをとるより私の言っていることを理解することに集中しろ」と言ったらしい。本当に密度の濃い授業だったらノートをとっていたらいつのまにか置いてけぼりにされるということもありうる。
板書をそのままノートに書かせるくらい重要視するということはあらかじめ板書の内容を用意しているということになる。それだったら、それをプリントなり、添付ファイルなりで学生に配布すればいいので、それをもとに授業をすればいいだけの話だ。
そもそも学生に先生の話したとおりに筆記させるとか板書をそのまま写させるというのはどこから始まったことなのだろうか。
西洋の言葉で授業や講義を表す言葉は「読む」に関係している。英語のlectureはラテン語のlectus(読んだ)から来ているし、ドイツ語の「講義」Vorlesungはvor(前に)Lesung(読むこと)で「(学生の)前で読むこと」となる。
印刷術が普及するまえは本は写本の形でしか作れなかった。学生に教科書が行き渡るということはないので先生は学生の前で教科書を読み上げるというスタイルで授業をしていた。学生は先生の言ったことを必死に筆記する。そうすると人数分の教科書ができることになる。日本でも抄物といって講義ノートのようなものがある。洋の東西を問わず同じようなことが行われていたらしい。
日本の大学でもつい最近まで「ノート講義」と言われるスタイルで授業をする先生がいたらしい。先生が作ったノートをそのまま読み上げるのである。学生はそのまま筆記することが期待されている。学生の反応を見ながら内容を少し変えたりあるいはその場で思いついた例を加えたりするのが楽しいのだが、読み上げ方式ではそのような学生と教師の相互作用は全く期待されていない。私が学生の立場だったら退屈に感じて次の週からその講義を聞くのを止めてしまうだろう。今でもそれに近い講義スタイルの先生もいるようだが。
冒頭の高校生の投書を見ると学校というのは化石のように古いものを残しているのだと思う。

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カテゴリー: 雑文

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